このところ、Amazonの電子書籍版で読んでいた江戸川乱歩の全集と村上春樹の短編集『女のいない男たち』を読み終え、今は村上の音楽評論集『意味がなければスイングはない』を読み始めたところです。
本作は、春夏秋冬と年4回発行される季刊オーディオ専門誌『Stereo Sound』(Stereo Sound ONLINE)に、2003年春号から2005年夏号まで連載された10の評論をまとめたものです。
全部で10あるうちの今は5番目の途中を読んでいるところです。
各回ひとりの音楽家やミュージシャンを取り上げていますが、2004年夏号だけは、ふたりの作曲家を取り上げていますので、合計では以下の11人になります。
どうでしょう。この中で馴染のない音楽家やミュージシャンはどれくらいいますか。音楽にどれだけ接しているかで差が出そうです。
私は、NHK-FMのリクエスト番組に1983年度から2010年度までリクエストをしたこともあり、それなりに音楽には接しているつもりですが、この中で馴染といえる人はいませんね。
というよりも、村上が好む音楽と私のそれとにズレがあることが原因しているでしょう。
村上の音楽評論集をここまでざっと読んできて感じたのは、村上の「カッコつけ」です。本業の小説を読んでいても感じるのですが、村上は自分を実力以上によく見せたい欲求が強い人に感じます。
だから、何か文章にしようとしたとき、自分の知らないことがあれば調べ、それを文章に混ぜて、いかにも自分が多くのことに通じているように振る舞うことをします。それが本作では、至るところに見て取れます。
また、ありきたりの音楽を取り上げたのでは、自分がその程度の人間に思われると考えるのか、できれば多くの人が知らない人や音楽に注目し、「どうだ。こんな音楽やミュージシャンは知らないだろう?」といっているようにも思えます。
逆にいえば、その分野の王道の良さを知らずにいることになり、それはそれでつまらないように私には思えます。
村上はジャズ喫茶を経営した経歴があり、ジャズにはうるさいようですが、冒頭にシダー・ウォルトンを持ってきたりします。本当にこのジャズメンが好きなのでしょうが、王道のジャズメンをどのように聴き、彼らが奏でるジャズをどのように楽しめるのか、一度文章で読んでみたい気がします。
ふたり目に登場するブライアン・ウィルソンの回を読み、本コーナーで取り上げることを考えました。村上がわかったようなことを書いているものの、それを読んでいますと、村上が音楽ビジネスの狙い通りのリスナーであるように感じたからです。
私はブライアン・ウィルソンというのは意識したことがありませんが、米国のバンド、ビーチ・ボーイズなら知っています。このグループの中心だったのがブライアン・ウィルソンになるようです。
村上がビーチ・ボーイズに出会ったときのことを次のように書いています。
初めてビーチ・ボーイズの音楽に出会ったのは、たしか1963年のことだ。僕は十四歳で、曲は「サーフィンUSA」だった。机の上にあった小さなソニーのトランジスタ・ラジオから流れてくるそのポップソングを初めて耳にしたとき、僕は文字どおり言葉を失ってしまった。僕がずっと聴きたいと思っていたけれど、それがどんなかたちをしたものなのか、どんな感触を持ったものなのか、具体的に思い描くことができなかったとくべつなサウンドを、その曲はこともなげにそこに出現させていたからだ。
村上春樹. 意味がなければスイングはない (文春文庫) (Kindle の位置No.355-360). . Kindle 版.
これはこれでいいと思います。偶然耳に入って来た音楽を「いい!」と感じたのは、知識ではなく感覚が判断した結果だからです。「いい!」と思える音楽に出会えるのは幸せなことです。
個人的なことをいいますと、ビーチ・ボーイズに代表されるような音楽は、私は好きになれません。この音楽のジャンルはわかりませんが、いわゆるアメリカンロックといわれるような音楽に私の食指は動きません。
私がラジオを聴いていて、昔に「いい!」と感じたのが何かと思い出しますと、ニルソンが歌うバージョンの『ウィズアウト・ユー』ですね。当時ですから、シングルレコードを買い、プレーヤーに何度もかけて聴いていました。

村上はビーチ・ボーイズに出会ってもすぐにはブライアン・ウィルソンの凄さには気がつかなかったのでしょう。
そのブライアンがグループの中で力を持つのと反作用を起こすように、ブライアンの音楽性が前面に出た『ペット・サウンズ』(1966)というアルバムをリリースします。
当時の村上は、他の音楽ファンと同じように、その変化を受け入れることができず、次のようなことを感じた、と書いています。
正直に言って、それは当時の僕の理解を超えた音楽だった。そのアルバムを聴きながら、首をひねらないわけにはいかなかった。「悪くはない。ぜんぜん悪くはない。でもあのハッピーで、スムーズで、スインギーな、僕のビーチ・ボーイズはいったいどこに行ってしまったんだ?」と。僕がそのときに抱いたのは、「裏切られた」という心情にいくぶん近い種類のものだった。
村上春樹. 意味がなければスイングはない (文春文庫) (Kindle の位置No.431-435). . Kindle 版.
名声を得る前の村上の素直な反応で、これも悪くありません。しかしその後、成人して作家として名声を受けた村上は、再びビーチ・ボーイズの中心人物であるブライアン・ウィルソンに再び注目し、中学生の頃は裏切られたと感じたアルバムを聴き返し、その凄さにあとになって気づいたようです。
どんな音楽でも、当時は気づかなかったことにあとになって気づくことはあります。ですから、村上がブライアン・ウィルソンを再評価したのも不思議ではありません。
しかしそれを、自分が名声を受けてから文章にしますと、そこに私は、あざとさを感じ取ってしまうのです。
ブライアン・ウィルソンはグループのメンバーとの関係が上手くいかず、レコーディングにも加わらない時期があったようです。
その後、メンバーから離れ、ソロで活動するようになったようですが、その機会を音楽ビジネスサイドは“復活”と捉え、売り出すこともしたでしょう。もしかしたら、そのタイミングで村上はブライアン・ウィルソンを再評価するようになり、コンサートツアーがあれば、ハワイへも行くようになったのでしょう。
であるとすれば、これも音楽ビジネスの一環で、それに載せられていることになりはしないでしょうか。
村上が書くほかのミュージシャンや音楽、音楽でもいえますが、村上は誰もが心地よく聴くような音楽よりも、ほかの人が注目しないような人や音楽に近づき、それが小難しい音楽であればあるほど、わかった気になる傾向を持つように感じます。
音楽の背景にある音楽家やミュージシャンの生きざまも村上はセットとして考え、それがスタン・ゲッツのような悲惨な人生であれば、それがもたらされた演奏に、実際以上の価値を求めようとしているように私には感じられました。
これがもし、絵画の鑑賞であったらどうでしょう。私は絵画というものは、自分の気に入った絵画を、自分が感じたままに鑑賞するのが良いと考えます。
しかしもしも村上が絵画を鑑賞したら、描かれた作品の物質そのものに注目せず、画家の生き様や、描かれた内容を、ほかの人が書いた文章などを参考にしてわかった気になるようなことを想像してしまいます。
テレビの美術番組などを見ますと、一枚の絵画を取り上げ、そこに何が描かれているか紹介するのが一般的です。
私はそれをいつも不満に感じます。私が知りたいのは何が描かれているかではなく、画家がどのような描法で描き、それが作品にどのような魅力として表れているかです。こんなことをテレビの美術番組が取り上げることは稀です。
村上は、フランツ・シューベルトの『ピアノソナタ第十七番ニ長調』にわざわざ注目することをしています。なぜそうするかといえば、一般的なクラシック演奏家や愛好家からあまり注目されて来なかったからです。
隅に置かれたようなこの楽曲に村上が近づくきっかけは知りませんが、もしかしたら、中古のレコードをたまたま手にしたことであったかもしれません。
手に入れたレコードで馴染のなかった楽曲を繰り返し聴き、次第にその良さが感じられ、ほかの人に先駆けて自分が気がついたと村上は感じもしたのか、同じ楽曲の演奏を録音した、他の演奏家のレコードを次々買い求め、その違いを聴き分けたようです。
ちなみに、村上は日本人のピアニストである内田光子が演奏する録音は、「音楽的な質も高いし、構築もしっかりしているし、音楽的表情もちゃんとあるのだけれど、そのわりに人肌の温かみが伝わってこないきらいがある」としています。
私はそこまでクラシック音楽を突っ込んで聴いたことがなく、演奏家によって同じ楽曲がどの程度違うのかも感覚として掴めていません。
それだから、村上のこの試みは称賛しますが、なぜシューベルトのあまり知られていない楽曲に拘るのかがわかりません。もっと一般的で、誰もが知っているようなクラシック音楽ではどうして満足できないのでしょう。
村上の短編集『女のいない男たち』の表題作『女のいない男たち』に「エレベーター音楽」と書く個所があります。「僕」が付き合っていたエムという彼女が、いわゆるエレベーター音楽の愛好家だったと書いています。
それがどんな音楽かといえば、パーシー・フェイスやマントヴァーニ、レイモン・ルフェーブル、フランク・チャックスフィールド、フランシス・レイ、101ストリングス・オーケストラ、ポール・モーリア、ビリー・ヴォーンなどのイージーリスニングのことです。
短編の「僕」、つまり村上は、「(僕に言わせれば)無害な音楽」を一段も二段も低く見て、どうして「僕」が好きなデレク・アンド・ドミノスやオーティス・レディング、ドアーズなどの音楽を運転する車でかけさせてくれないのだ、と不満たらたらです。
要するに、村上はエレベーター音楽よりも、自分が好きな音楽の方が高尚だといいたいらしいのです。
ハッキリいいましょう。音楽に高尚も低俗もありません。感じ方はその人の自由です。村上の好みに合う音楽ばかりをどうして高尚にできるのか、その神経を疑います。
それは村上の思い込みでしかありません。
ヘンリー・マンシーニは様々な映画音楽を作曲していますが、その中には『ティファニー朝食を』が含まれます。村上はその原作を書いたトルーマン・カポーティを影響を受けた作家のひとりに挙げ、同作の翻訳までしています。
それを原作とする映画の音楽をヘンリー・マンシーニがしているため、エレベーター音楽に加えたくなかった(?)のでしょうか。
思い込めばブライアン・ウィルソンは村上にとって神にもなるのでしょうが、私はそんなミュージシャンであり作曲家がいることも知りませんでした。また、知らなかったことを恥ずかしくも考えません。
村上の音楽評論はまだまだ続き、日本人からは唯一、スガシカオを選んでいます。ネットの事典ウィキペディアの記述をチェックしますと、スガシカオは村上のファンを自認しているようです。
誰でも自分のことをそんな風にいってくれる人を悪くは思いません。そんなスガシカオの村上に対する思いが誰かから村上にもたらされ、それで村上がスガシカオの音楽に興味を持つようになった(?)のかもしれません。
であるとすれば、関心の持ち方が不純に思えなくもありません。
個人的には、スガシカオの音楽を自分で積極に聴いたことはなく、これから先も聴く予定はありません。
ともあれ、村上の音楽評集に目を通していますと、一生懸命集めた資料や知識をこねくり回して書いている印象で、ときに辟易します。
もっと単純に音楽を楽しめばいいのにと私は無責任に考えてしまいますが、それでは、世界的な名声を持つと本人が考える村上としては、名が廃るとでも考えるのでしょうか。
