昨今にわかに聞かれるようになったのが熊による被害です。熊が出没する地域に暮らす人は、熊への警戒で気持ちが休まらないでしょう。
熊が人と遭遇することが増えた原因はいろいろいわれています。その原因のひとつは、熊が生息する山林を人間の手で開発することが進んでいることもあるように思います。
ゴルフ場やスキー場も、熊の生息地を人間の手で奪う開発になりましょう。
そしてもうひとつ、近頃になって増えたのが、太陽光発電のためのメガソーラーの建設なのではないでしょうか。そこまでして太陽光発電を進める必要があるのか、もう一度考え直す必要があるように思われます。
本日の朝日新聞・社会面に、熊を「駆除」するため、秋田と岩手の両県が共同する形で、警察官がライフル銃を使って「駆除」する体制が整ったことを伝える記事が載っています。
「駆除」と和らげて表現されますが、和らげずにいえば、銃で熊を「殺す」意味です。それが仕事とはいえ、熊を自分の銃で殺すことに、ためらいを感じる警察官がいるのではないかと思います。
熊が人間を襲い、襲われた人が命を失う事故も発生しています。肉親を殺された人からすれば、熊は殺してしかるべき存在に感じるでしょう。
熊と熊の被害から遠いところに暮らす私は、熊を殺すことに罪悪感のようなものを感じます。大きな熊であれば、人間の大人か、それよりも大きな熊もいるでしょう。
その大きな生き物の命を、自分の一撃で奪うことを、私はしたくありません。
昔から、アフリカの大地で、大きな野生動物をハンティングするのを「行楽」とする人たちがいます。お金と時間に不自由しない人がそんなことをするのでしょうが、私には理解できません。
米国ハリウッドの巨匠映画監督ジョン・ヒューストン(1906~1987)が『アフリカの女王』(1951)という映画を撮ったとき、ヒューストン監督が自分の「趣味」とするハンティングに夢中になり、なかなか撮影に入らず、待たされた俳優が苛立ちを強めたという話があります。
その作品に出演したキャサリン・ヘプバーン(1907~2003)が、その時にヒューストン監督に抱いた不満を、のちに出版した『アフリカの女王とわたし』という本の中で書いています。
本作品の脚本を担当し、アフリカロケにも加わったピーター・ヴィアテル(1920~2007)が、自分が現地で見たことを基に書いた小説を彼自身が脚色した『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)という映画まであります。
ヒューストン監督といえば、ジャック・ニコルソン(1937~)が私立探偵を演じた『チャイナタウン』(1974)に俳優として出演したのを思い出します。
アフリカの大地で、人間よりも遙かに大きな動物を、自分の銃の一撃で倒す行為は、それを「趣味」とする人には堪えられないことなのでしょう。
極めて人間的な感覚になりますが、その動物も、一頭だけで生きているわけではないでしょう。人間には獰猛に見える動物にも、雄であれば妻や子供たちがいたりするのではないですか?
もしかしたら、家族思いの動物かもしれません。そんな動物を、人間の楽しみで殺すのは、どう考えても、許されることではないように私には思えます。
日本国内で頻発する熊による被害は、現実問題として、熊が生息する地域に暮らす人にとっては、恐怖この上ないことは理解します。
銃で殺すのではなく、睡眠薬入りの弾で熊を一時的に眠らせ、どこかの山奥に運んで、人間から遠ざけるといったようなことは現実的ではないのでしょうか。
熊にしてみれば、それまで生息していたところか離れたところへ眠っている間に運ばれ、目が覚めたときにパニックになってしまうかもしれませんけれど。
私には良いアイデアは浮かびません。良いアイデアを持つ人の考えを集約し、熊の命を奪わずに、人間への被害が及ばない方策が実現されるのを望みます、と他人事な締めくくりでお茶を濁すことぐらいしか私にはできません。
