この更新も、音声入力によって行なっています。使うのは Google の日本語入力と、それを利用したアプリの Edivoice です。これも AI を使った技術のひとつつでしょう。
AI といえば、先週末(23日)の日経新聞・書評欄で、AI について書かれた本が紹介されていました。マーカス・デュ・ソートイ(1965~)という人が書いた『レンブラントの身震い』という本です。
この更新も、音声入力によって行なっています。使うのは Google の日本語入力と、それを利用したアプリの Edivoice です。これも AI を使った技術のひとつつでしょう。
AI といえば、先週末(23日)の日経新聞・書評欄で、AI について書かれた本が紹介されていました。マーカス・デュ・ソートイ(1965~)という人が書いた『レンブラントの身震い』という本です。
今を生きるほとんどの人は、陰翳が持つ本当の美しさを知らずにいます。
夜になって暗くなれば、部屋の蛍光灯をつけ、昼と変わらないような明るさを求めます。
私だって暗いのは苦手です。昨秋、台風15号の影響で停電が3日と半日続いたとき、夜の来るのを怖く感じました。
その一方で、いつでも明るくできる環境を確保したうえで、あえて光量を落とし、陰翳の美しさを味わってみたいと思うことがあります。
個人的な話になりますが、私は入浴の時間が一般的な人より早いです。他の用事がない限り、風呂に入るのは夕方です。その時間はまだ外が明るいです。しかし、陽の沈むのがだんだん速くなっており、来月末頃に最も速い日没(東京が午後4時28分)となります。
暗くなってから入浴する多くの人は、電気をつけずに風呂に入ることはないでしょうが、今書いたように、外にまだ光がある時間に入る私は、外光だけで入浴します。自然光を愉しみたい気分があるからです。
10月になり、関東も秋本来の陽気となりました。秋になれば「〇〇の秋」が何でもござれです。
私には「芸術の秋」「美術の秋」が訪れました。芸術や美術というほど大層な物ではありませんが、ここへ来て、絵画制作が順調すぎるほど順調に感じます。
今日の朝も、自分の顔を描く自画像に加筆しました。描き始めて4回目の筆入れで、加筆としては3回目になります。前回の加筆で、何か“開眼”したように感じ、ハイな気分のまま本コーナーの更新をしています。
これを書き始めた今の時刻は午前8時53分。まだ9時前ですが、ひと仕事を終えた気分です。
朝の時間に、1時間ほど絵を描きました。これが予想外にうまくいった感じを持ち、気分がとても良いです。手を加え過ぎると今ある感じが崩れてしまいそうで、今日はこれ以上手を入れないでおきます。
使っている絵具は油絵具で、今回は木枠に張ったカンヴァスではなく、手元にあったボールドキャンバスに絵具をつけています。日本の画材メーカー、ホルベイン工業の製品で、大きさはF3(27.3×22.0センチ)です。
昔のヨーロッパの画家がカンヴァスに描くようになる前は、板に描いています。私が今使っているホルベイン製支持体は、厚紙に目の細かいカンヴァスを張り付けたものです。
木枠に張ったカンヴァスと違い、筆で色をつけていてもカンヴァスがしならず、板にでも描いている気分が味わえます。
1週間前の投稿では、髪形について書きました。
きっかけは、想像で女性の肖像を描こうとする場合、髪形がどうもうまく描けないことでした。
私が描こうとしている女性は、長い髪を後ろで結んでいます。しかし、その結び方を見たこともありませんで、どんな風にそんな髪形を作っているかは、男性の私には謎のようなものです。
ヘンな話ですが、私は今、女性の髪形に興味を持っています。
先週、用事があって役所へ行きました。受付のあるロビーの椅子に座っているとき、前に座っている、おそらく20代後半から30代の女性の髪形を後ろから何気なく観察しました。
長い髪で、後ろで結んでいるだけですが、それとなく観察すると、ひと手間かけた髪形のように感じました。
今は、男性でも髪形に気を付ける人は美容院を利用するようです。その点、私自身はズボラで、高校を卒業してからは、理髪店へも行っていません。伸びてきたら、適当に自分でカットしているだけです。
そんな私ですから、ヘアスタイリングの知識もテクニックも持ち合わせてはいません。
関東でもまだ猛暑が続いていますが、それでも9月に入ったこともあるのでしょうか。絵を描きたい欲求が高まっています。
私が絵を描くのに使う画材は油絵具です。扱いが難しく、私は長い年月接してきましたが、未だに使いこなせていません。
わからないときは、私が最も敬愛する17世紀のオランダの画家、レンブラントの画集を見ます。レンブラントの中期以降、晩年になるほど画材の扱いが魅力的になり、細部の絵具の重なり具合を見ていると、時間が経つのを忘れるほどです。
レンブラントの絵画技法に焦点を当てた1冊は、購入してから30年経ちましたが、本棚にいつも置き、気になるとすぐに開いて見ます。
その中の一枚に、マルガレータ・デ・ヘールを描いた肖像画があります。描かれたのは1661年とありますから、レンブラントが亡くなる8年前、55歳の時の作品です。
昨日、描きかけの油彩画に加筆しました。いくら時間をかけても、望むような感じにならないと半分諦めていました。
亡くなって今年で27年になる母の生前の姿を描いています。その当時は、とうに視力を失っていましたが、家の中で猫を抱いているところを私が写真に撮り、それをもとに描いている小さな絵です。
同じ写真から何回か描いて試しましたが、うまくいかず、これで何度目かの挑戦です。今回は思いつきで、支持体はカンヴァスではなく、何かのときに使おうととってあった1センチ程度の厚みを持つ板です。
サイズは、ほぼSM(サムホール 22.7×15.8センチ)です。
写真をもとに描くといっても、写真を見るのははじめだけで、あとは何も見ず、絵具をつけていきました。こうすることで、固有色に必要以上に縛られず、自由に色を扱える気分になれます。
小学校の低学年の子供たちが、たとえばクレヨンを使って自由に描いた絵を見ますと、うらやましく感じることがあります。固定観念に縛られず、思いが向くままにクレヨンを走らせてることができているからです。
本日は、先日(25日)の「新日曜美術館」(日曜美術館 NHK教育/日曜09:00~10:00 再放送20:00~21:00)で取り上げられた日本画家・甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと)について書いておきたいと思います。
当日の番組タイトルは_「穢(きたな)い絵だが生きている 大正画壇の奇才・甲斐庄楠音」です。
のちに先輩画家に「穢い絵」と烙印を押される楠音が描く女性像。私は当日の番組にはそれほど興味がわかず、習い性で見始めました。
それが変わったのは、楠音が描いた絵が紹介されたとき、ではありません。
たしかに、「大正画壇の奇才」と称されたのも頷ける画風ではありました。しかし、あまりにも「作り絵」っぽいのがどうも私の好みに合わないことを感じていました。
楠音は、「男が詩想した女ではなく、針でつけば真っ赤な血潮が吹き出るような、生身の女そのものを描きたい」と願い、それを絵筆に込めたということですが、それでも日本画の画材が制作に制約を課し、少なくとも私の眼には、生身の女を描いたようには映りませんでした。
大正9(1920)年に描いた絵に『幻覚』があります。