2009/04/28 正直な人だった手塚治虫

手塚治虫と聞いて、どのようなイメージと共に手塚さんを思い出すでしょう。今や、手塚治虫といえば、“漫画の神様”と祭り上げられ、下へも置かぬ扱いです。

たしかにそれだけの価値がある人物で、私も手塚治虫は、作品世界以上にあの人物像が好きだったりします。あれだけの人物はそうそういないであろうと考えることもあります。

その一方で、世間に流布する一面的すぎる手塚治虫像に居心地の悪いものを感じたりするのもまた事実です。しかし、テレビで手塚さんの特集が組まれますと、誉め上げるだけで、居心地の悪さの理由について語られることは多くありません。

その点、先週、NHK衛星第2で放送された「週刊・手塚治虫」は見もの、聞きものでありました。

この番組では、毎週ゲストをひとりお迎えし、手塚治虫と作品について語ってもらっています。その日(24日)ゲストにお招きしたのは、映画監督の大林宣彦さんです。

2008/7/17 創価学会の理論的支柱だった原島嵩

「原島嵩(はらしま・たかし)」という名前を見聞きし、創価学会の関係者ならいざ知らず、一般の人で「ああ、あの原島さんか」とすぐにわかる人はごく少ないのではないでしょうか。

一般人のひとりであるσ(^_^)私もまったく存じ上げていませんでした。その死亡記事を載せた記事(『週刊新潮』2008年7月24日号)を目にするまで。

「創価学会の理論的支柱」(元創価学会広報部副部長・小川頼宣氏の証言)的人物であるのなら、その訃報を主要新聞が取り上げて然るべきと考えますが、なぜか、どの新聞にも死亡記事は載っていないそうです。その原島さんがこの6日お亡くなりになっています。享年69歳だそうです。その関連で調べていましたら、父親の宏治氏は55歳で亡くなっています。しかもウィキペディアには「急死」とあり、何か引っかかるものを感じます。なお、この宏治氏は、公明党の初代委員長を務めているそうです。

私はまったく知識を持ち合わせていませんでしたが、そもそも創価学会という新興宗教団体は、日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の信徒団体なのだそうですね。

2001/11/26 デジ紀信

スポーツ新聞(スポーツニッポン←たまにスポーツ新聞をサービスで置いていってくれるのです(^-^))をパラパラとめくっていると、女性のヌード写真が目に入りました。

そのヌードの女性は、上半身裸で顔にはサングラスをかけ、下半身は共に黒いレザーのショーツとブーツだけを身にまとっています。

問題は撮影場所ですが、この寒空の中、都心上空のヘリコプターの中です。しかも、サイドのドアは全開にされ、モデルは肢体を半身外に乗り出した形で写真に収まっています。よく見たら、寒さと恐さで鳥肌が立っていたりして(^_^;

それでそれで、この写真を撮った写真家は誰かといえば、、、「やはり、そうでしたか」。篠山紀信(しのやま・きしん)でした。

2015/08/11 横尾忠則の「美しい」を形にした大阪万博パビリオン

時代を象徴するようなことがありますと、何年経ってもそれを繰り返し振り返ります。先の大戦がその象徴ですが、戦争が終わって今年が70年目にあたります。

それがあって今年で45年経つものがありますが、何が思いつかれるでしょう。当然のように、45歳以下の人には遠い昔の出来事に感じられるでしょうが、今から45年前の1970年といえば、「大阪万博(日本万国博覧会)」があった年として多くの人に記憶されています。期間は、同年3月14日から9月13日までの183日間です。来場者数が【6421万8770人】だったことから、どれほどの熱狂に包まれたか想像できるであろうと思います。

万博の会場に選ばれたのは、大阪の吹田などに広がっていた千里丘陵です。ここに、100を超えるパビリオンが立ち並び、その周囲をモノレールが走り、さながら“未来都市”が出現したかのように見えたでしょうか。

本日は、その万博会場でひときわ目を引いたであろうパビリオンをデザインした人の話を書くことにします。日経新聞には日曜日の紙面で2ページを使った美術コーナー「美の美」があります。このところは「戦後70年」と題した連載をしていまして、9日分は第6回にあたります。

見出しは「若者たちの大阪万博」です。