逃げられない恐怖 清張の『神と野獣の日』

昔、子供向けの雑誌に載っていた話を思い出します。詳細は憶えていませんが、地球上の空気が一斉に数分間なくなるという話です。

普通の人は、呼吸を止めている時間はせいぜい1分間程度でしょう。個人差はありますが、高齢者や幼児はもっと短いかもしれません。

そんな人類にお構いなしに、2分間か3分間、あるいはそれ以上、呼吸ができない事態が目前に迫っていることを知り、人々がパニックに陥る話であったように記憶します。

これを思い出したのは、松本清張にしては珍しいSF的作品を読んだことによってです。

『神と野獣の日』という作品です。1973年に発表された作品のようです。

今回も、Amazonの電子書籍を、Kindle Unlimitedを利用して、追加料金なしで読みました。

1964年から9年がかりで小松左京が執筆していた『日本沈没』が1973年に完結しています。

https://youtu.be/qvI1KBOwGQg

もしかしたらこの作品に触発されるように清張が同じ分野に挑んだのかもしれません。

物語は、早春の晴れて暖かい昼下がり、ひとりのサラリーマンがタクシーで走る場面から始まります。彼は広告会社の社員で、取引先の会社へ説明に向かう途中です。

午後2時に相手先へ向かうことになっているのに、皇居前広場付近の道路は混みあい、イライラして腕時計で時刻を確認します。午後1時32分です。

ちっとも動かないタクシーの後部座席にいた彼は、ヘリコプターの音を聞きます。見ると、上空には何機ものヘリが飛び交っています。

ヘリは、都心のある地点に降下していきました。彼は気になり、運転手に「今日は何かあるのかい?」と訊きますが、知らないといわれ、彼は今見たヘリへの興味を失います。

昼下がりの街はのどかな情景です。街を離れた郊外も、春の陽を浴びて、時間がのんびり流れていたでしょう。

https://youtu.be/n68rQM0mpDI

同じころ、首相官邸(総理大臣官邸)では、共同会見を始める状態にありました。準備は終わり、記者たちが首相の登場を待っています。待合室に控える首相は、欠伸をしました。時刻は午後1時32分です。

ちなみに、1973年当時の首相は田中角栄でした。

そこへ血相を変えた首相秘書官(内閣総理大臣秘書官)が大股で入ってきます。控室にいた与党の実力者らは、何事かと秘書官のほうを見ます。

秘書官は、たった今、防衛省の統幕議長(総合幕僚長)から首相に電話がかかっていることを伝えに来たのです。

首相は執務室へ移動し、緊急時の専用電話の受話器を取り上げます。受話器から聴こえる統幕議長の声は上ずり、東京に危機が迫っていることを伝えます。

「二分 前、 正確には一時三十二分 に、在日米空軍司令から緊急 連絡を受けました。要点を申し上げます。本日、午後二 時十五分、つまり、あと 四十三分で、東京に 向かって誤 射された五メガトンの核弾頭をつけたミサイル が 飛んできて爆発を起こし ます……」

松本 清張. 神と野獣の日 (角川文庫) (Kindle の位置No.89-91). KADOKAWA / 角川書店. Kindle 版.

その後詳細がわかり、日本から2万キロ離れたZ国の核弾頭が搭載されたミサイル5基が誤射され、東京都心目がけて飛行中というのです。

日本に到達するまでに5基すべてを迎撃することは難しく、仮に5メガトン(核出力)の核弾頭を搭載されたミサイル2基が着弾すれば、広島に落とされた核爆弾の5百倍の威力だとされます。

南関東はほぼ全滅することが予想されます。首相は、この事実を国民に知らせるべきか悩みます。残り41分で、都心から半径12キロ以内にいる人間は一瞬で消滅するであろうことが予想されるからです。今から逃げろといっても間に合いません。

このような設定で、清張は筆を走らせます。結局は、ラジオとテレビを使ってこの危機を知らせますが、伝える側も含め、残り40分弱で命を奪われるのですから、正常でいられる者はひとりもいなくなります。

清張は、このことによって荒れ狂う人々を、一気呵成に書く印象です。

もしも現実にこのようなことが起き、自分が対象の区域に置かれた場合、何を考え、どんな行動を採るだろうと考えるでしょう。

その後、ミサイルの着弾時刻が訂正され、午後3時9分に都心を中心に南関東全域が死滅するであろうことを覚悟させられます。

清張は、極限の状態に置かれた人間の心と動きを書きたかったのでしょう。体裁はSFですが、それはそれらを書くための仕掛けでしかありません。

人間が本来持つ欲望の箍が外れされ、原始人に戻っていきます。人が倒れても、その背中を平気で進んで行きます。人生が間もなく終わることを知った男は女を強姦し、女は抵抗する気力も失い、やがては自ら辱めを受けるのを望む者まで出るしまつです。

関東圏に駐留する米軍関係者は、自分たちの命を守るため、素早く日本から脱出します。

東日本大震災によって福島第一原発が破壊されたとき(福島第一原子力発電所事故)、横須賀港に接岸していた米軍の原子力空母が、急に修理する必要が出たとして、そそくさと日本を離れたことを思い出します。

首相ら政府首脳は、首都が消滅することで生じる国内の大混乱を食い止めるためだとする大義名分で、都心を離れ、大阪へ移動します。

作品の冒頭、タクシーに乗っていた広告会社の男が見かけたヘリコプターは、政府要人を乗せるため、駆けつけたのでした。

都心の人びとは、生き延びるため、西へ西へと大移動します。電車の運転士も、満員の乗客と共に西へ走行させ、終点で電車を乗り捨て、より西を目指します。

少しでも生命の保存につながると考えた人々は、ビルの地下や地下鉄の駅やトンネルを目指します。同じ考えを持つ者でそれらの地下施設は人が満ち溢れ、酸素が欠乏します。

みんな立ったままで、真っ暗な空間で、身動きができなくなります。尿意や便意が催しても、立ったまま済ませるため、地下空間の足元には汚物で満たされるままにするよりほかありません。

気が狂った者は高いところから飛び降り、誰もいなくなった薬局からは睡眠薬が持ち去られ、自殺に使われます。

道路は乗り捨てられた車で溢れ、取り締まる警官もどこかへ逃げて無法地帯です。

世界から人権的に非難されることを恐れた政府は、服役中の囚人を牢獄から外界へ放ち、囚人たちは街の人々の群れに紛れ込みます。取り締まられなくなった彼ら彼女らが、たとえ人殺しをしても咎めを受けません。

こんな描写を読みながら、15世紀のフランドルの画家ヒエロニムス・ボッスの作品を思い浮かべました。

https://youtu.be/Ea6qS3nuvng?t=220

本作には名前を持つ女性が登場します。虎ノ門近くに建つ5階建てのビルで働く若い女性の戸上佐知子がそのひとりです。

彼女がいる事務室で働く者たちは、テレビやラジオで伝えられている緊急事態にまだ気がついていません。窓から見える様子がおかしいことに気づき、ようやくミサイルが刻一刻東京を目指して飛来していることを知ります。

幸子は、戦争が起きたような都心を必死で移動し、体も服もボロボロになっていきます。佐知子は世田谷の自宅にいる母親と最期を迎えることを考えます。

幸子は途中で考えが変え、都心のアパートに独り暮らしする恋人のもとを目指します。恋人にも木村規久夫という名前が与えられています。

規久夫のアパートにやっとで辿り着くと、アパートは住人がすべて脱出したあとで、もぬけの殻です。規久夫も逃げたあとかと思って部屋のドアを開けると、佐知子が来ると信じて部屋に待っていたのでした。

ミサイルの着弾まで残り30分。それまでの間にふたりの結婚式を挙げようと規久夫が提案します。映画『禁じられた遊び』に通じるようなふたりだけの世界です。

空想上の結婚式で新郎の規久夫は次のような挨拶を佐知子に聴かせます。

「本日、かように盛大なお集まりをいただきましたことは、新郎新婦の新しい門出にどのような励ましとなったか測り知れぬものがございます。これから、みなさまのご祝辞をいただくことと存じますが、それにつけましても、なにしろ若い者でございますから、今後ともご指導ご鞭撻を願うとともに、新郎新婦にとっても責任は重大なわけでございます」

松本 清張. 神と野獣の日 (角川文庫) (Kindle の位置No.1525-1530). KADOKAWA / 角川書店. Kindle 版.

規久夫と幸子の結婚披露宴と新婚旅行の話を読みながら、私は胸が苦しくなりました。ふたりを描きたいため、清張はSF的な本作を書いたのでしょう。

ふたりの極めて短い結婚生活の幕を閉じることになる核弾頭付きミサイル2基が、20度の角度で正確に都心の一点を目指して飛行しているのでした。

本日の豆知識
本作でミサイル1基が、都心の中心にある野球場のグラウンドに着弾するように描きます。近くに遊戯施設があると書かれていますから、東京ドームの前身である後楽園球場になりましょう。

やっと「COVID-19」とという正式名称がついた新型コロナウイルスが、感染規模を拡大しています。

中国当局が発表する感染者数は信用できないといいますが、正確な感染者の数は、どこの国であっても正確に把握することはできません。

日本でも、感染者の数を誰も知りません。今の時点でわかるのは、医療機関で確認された患者の数だけです。 COVID-19 は感染しても症状の現れない人も多くいるといわれています。

日本国内では、通勤通学のため、毎日電車やバスを利用する人が多くいます。それらの環境で、すでに、多くの人が感染している可能性がないでもありません。

ウイルスの変異も懸念されています。

空からミサイルが落ちて来なくても、清張が1973年に描いた恐怖の世界が、今の世界にじわじわと広がりつつあります。

本作を夜に読むと、寝つきが悪くなるかもしれません。

気になる投稿はありますか?

  • 村上作品に足りないもの村上作品に足りないもの 前回の本コーナーでは、昨日の昼前に読み終えた村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』の全体の感想のようなことを書きました。 https://indy-muti.com/51130 その中で、本作についてはほとんど書いたつもりです。そう思っていましたが、まだ書き足りないように思いますので、今回もその続きのようなことを書きます。 本作のタイトルは『1Q […]
  • 『1Q84』の個人的まとめ『1Q84』の個人的まとめ 本日の昼前、村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』を読み終えることが出来ました。 本作については、本コーナーで五回取り上げています。今回はそのまとめの第六弾です。 本作を本コーナーで初めて取り上げたのは今月8日です。紙の本は、BOOK1からBOOK3まであり、しかも、それぞれが前編と後篇に分かれています。合計六冊で構成されています。 それぞれのページ […]
  • 精神世界で交わって宿した生命精神世界で交わって宿した生命 ここ一週間ほど、村上春樹(1949~)が書き、2009年と2010年に発表した村上12作目の長編小説『1Q84』を読むことに長い時間をあてています。 また、その作品について、本コーナーでこれまで四度取り上げました。今回もそれを取り上げるため、第五段になります。 これまでに全体の80%を読み終わりました。私はAmazonの電子書籍版で読んでいます。電子版のページ数 […]
  • 村上作品で初めて泣いた村上作品で初めて泣いた このところは村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』にどっぷりと浸かった状態です。とても長い小説で、なかなか読み終わりません。 紙の本では、BOOK1からBOOK3まであり、それぞれは前編と後篇とに組まれています。全部で6冊です。私はAmazonの電子書籍版で読んでいるため、ひと続きで読める環境です。 https://indy-muti.com/51050 […]
  • 『1Q84』を実写版にするなら『1Q84』を実写版にするなら 村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』を読んでいます。 私は一冊にまとめられたAmazonの電子書籍版で読んでいますが、紙の本はBOOK1からBOOK3まであり、それぞれが前編と後篇に分かれています。 紙の本で本作を読もうと思ったら六冊になり、本作だけで置く場所を取りそうです。 前回の本コーナーで本作の途中経過のようなことを書きました。 ht […]