またまた恋しちゃったおじいちゃん

本コーナーで前回は、72歳の老人が主人公の小説について書きました。

松本清張1964年に発表した『筆写』という短編です。今から56年も昔の作品ですから、当時と今では老人の定義も異なるでしょう。

今は少子化によって若年層が減り、人口のピラミッドがアンバランスになっています。そのことで年金制度を維持するのが難しくなりました。それもあって、政府は70歳を過ぎても働くことを推奨しています。ですから今は、70歳過ぎた人でも老人扱いが許されない環境です。

それは別にして、清張の作品で、また、老人が登場する作品に出合いました。『生けるパスカル』という中編集を、Aamzonの電子書籍、Kindle Unlimitedの利用で読みました。

この中編集には、『生けるパスカル』のほかに『六畳の生涯』が収録されています。1冊を2作品で分け合う体裁で、老人が主人公の小説は『六畳の生涯』です。

本作は、1970年4月3日号から7月10日号まで『週刊朝日』に連載されたそうです。『筆写』が1964年発表ですので、その6年後になります。

作者の清張がどの程度意識したかわかりませんが、登場人物の設定が、前回紹介した『筆写』によく似ています。

主人公の志位田博作(しいだ・ひろさく)は79歳で、東京都西部の区に家族と暮らしています。博作は隠居の身で、息子夫婦に世話になっています。

博作は、『筆写』の主人公・安之助と同じで、長野の田舎の生まれという設定です。安之助は中学の教師で、のちに校長を務めました。

一方の博作は、軍医としてシベリアへも渡ったといい、戦後は長野で開業医をしていました。妻に先立たれたあと、東京で医院を開いた医師をする息子夫婦のもとで世話になっています。

博作はまだ元気で、息子夫婦の家の敷地内にある六畳の離れで暮らしています。博作は、息子に未だ競争心を持っており、医療の腕は息子には負けない意識でいます。

『筆写』の安之助と同じように、息子家族とは一緒に食事をしなくなり、手伝いに通ってくる女性に食事の用意をしてもらっています。

『筆写』には住み込みの女中がおり、信子という37歳の女性でした。本作はそれが、34歳の女性になり、名前を吉倉トミといいます。

信子は、一度は結婚したものの、夫になった男が放蕩者であったため、すぐに別れました。トミには41歳の夫と、小学6年の娘、小学3年の息子がいます。

トミも男運は良くなく、指物大工をしてはいるものの、怠け者で、酒や賭け事が好きなのでした。トミも若い頃は夫に手を焼いたようですが、今は諦めの心境(?)のようです。

博作に、夫はどんな顔をしていると訊かれたトミは、山村聰に似て苦み走ったいい男だと答えています。

清張は1909年の生まれで、本作を書いたときは61歳です。山村聰は1年あとの1910年生まれですから、60歳でした。清張は同年代の二枚目役者の山村聰の名をトミにいわせたのでしょう。

本作が発表された1970年といえば、山村聰は映画『トラ・トラ・トラ!』に出演し、山本五十六を演じていますね。

https://youtu.be/-n1pKsGqrqQ

『筆写』の信子と本作のトミには共通点があります。ふたりとも優しい心の持ち主であることです。それだから優しく接してくれる女中やお手伝いに、安之助も本作の博作も恋してしまうのでした。

トミは毎日午前8時半には家にやって来ては、博作のいる六畳間に顔を出します。

「おじいちゃん、 おはよう」

トミは望子(とちこ ※息子の妻)と会ってから、 六 畳に 顔を出した。歯齦(はぐき)をまる出しにして、大きな口で笑っているが、博作を揶揄しているのが変わらない表情だった。

「おう、おはよう」

「おじいちゃん、わたしを待っていた?」

「おう、待っていたとも。昨夜から待っていただ。話の伽(とぎ)がねえで、寂しくてならねえでな」

松本 清張. 生けるパスカル (角川文庫) (Kindle の位置No.2102-2106). 角川書店. Kindle 版.

歯茎を丸出しにして笑うと書いてあることで、トミがどんな器量の女性か想像できるでしょう。

博作は毎日、トミがやって来るのが楽しみで、トミが部屋に顔を見せると会話に花を咲かせ、やがてはトミに恋心を抱いてしまうのです。

トミにはひとつ困った癖があります。それは、患者の家からもらった箱に入った菓子やタオル、ビール、調味料などをそっと抜き盗ることです。

トミが自分の買い物かごに忍ばせて運んでいくのですから、たまに少し盗まれる程度です。アルコール類は、酒に目のない夫に飲ませるつもりでしょう。

博作の息子の妻や、医院の看護師もそのことには気づいてはいます。息子の妻は、困ったことだとは思いながら、もらい物だからと大目に見ています。

博作とトミの会話は掛け合い漫才のようで微笑ましいです。

「そんなにおまえの亭主が苦味走ったいい男 なら、外で女子衆にもてるだろうな。ははあ、わかった、夫婦喧嘩はおまえがヤキモチを焼くからだ」

「もう、 そういう時は過ぎたね。外で何をしようと気にかからなくなったわよ」

「そうでもないだろう。おまえが外で働いて亭主に好きな酒を飲ませるのも、苦味走った、やくざな亭主に惚れているからだ。ほら、図星だろう?」

「あら、 おかしい。おじいちゃん、ヤキモチを焼いているわ?」

「なんで、おれがおまえたち夫婦のことでヤキモチを焼かねばならねえだ?」

「おじいちゃんは、わたしが好きだからよ。そして、わたしもおじいちゃんが好きよ」

「またはじめやがった。年寄りをからかおうたって、そうはいかねえぞ」

「ほら、おじいちゃんの眼が赤くなったよ」

松本 清張. 生けるパスカル (角川文庫) (Kindle の位置No.2218-2226). 角川書店. Kindle 版.

こんな会話を空想して書きながら、作者の清張自身が、楽しんでいたのかもしれません。それを読む読者も、こんな会話を交わせる年の離れた異性がいたら、これはこれで楽しいに違いないと感じたりするでしょう。

このまま何事も起こらなければ、仲の良い老人とお手伝いさんで終わります。しかし、社会派ミステリー作家の清張が書く作品ですから、そのまま終わるはずがありません。

どんなことが起きるかは、読んで確認してみてくださいとしかいいようがありません。

創作された話ですから、すべてのことが済んだあとも、トミが歯茎を丸出しにして笑いながら博作と話す場面にいつでも戻ることができます。

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