来月の「母の日」(5月の第2日曜日。今年は5月12日)まではまだ間がありますが、昨日の日経新聞に、シンガーソングライターのみなみらんぼう氏(1944年12月13日宮城県栗原郡志波姫町出身。法政大学卒業後、ラジオ台本作家を経て1971年『酔いどれ女の流れ唄』で作詞・作曲家デビュー。1973年には『ウイスキーの小瓶』で歌手デビューも果たす。作詞作曲した『山口さんちのツトム君』はミリオンセラーとなる)が母への想いを綴った一文が載っていました。
「青春の道標・母の死 悲しみの夏」と題された文章がソレです。
その文章によりますと、らんぼうさんが育った子供時代にはまだテレビ視聴は一般的でなく、「子供は風の子」とばかりに外で元気良く遊び回っていたそうです。そして家に帰ったら帰ったで、今度は室内の座敷の畳2枚で急ごしらえした“土俵”で、母親と相撲を取ったりもしたそうです。
らんぼうさんのお母さんは体格が良かったそうで、小学校5年の頃までは全く歯が立たなかったとか。そして6年生になってようやく五分五分の相撲を取れるようになったそうです。
そんならんぼうさんのお母さんが亡くなるのは、らんぼうさんが中学に進学した4月のことです。
ある日お母さんは隣町の実家へ用足しに出かけ、そこで脳溢血(脳出血)を起こし、そのまま帰らぬ人となったのです。享年37歳の若さでした。
らんぼうさんは、中学入学用に母親から買ってもらった学生服のことを思い出します。
まだまだ物を大事にする時代だったことを反映しているのでしょうか、買ってもらった学生服は何年も着られるようにダブダブでした。らんぼう少年は母親に向かって「こんなの恥ずかしくて着られない!」と思わず怒ってしまいます。
それは、母親がこの世で最後に買ってくれた服なのでした。
中学入学と同時に母を亡くしたらんぼう少年はバレー部に入り、日々練習に汗を流すことになります。
ひと夏を越した9月のある日、らんぼう少年は独りで家に帰りました。その日はバレーの練習が休みでした。
小学校時代に母と相撲を取った座敷はガランとし、カーテンの隙間から入り込んだ光が、畳の上に三角形を作っています。畳の上に寝ころんでいたらんぼう少年の耳にカタンと音が聞こえた、ような気がしました。音は台所の方からです。
お母さん?
らんぼう少年は思わず小さく叫びました。が、誰も彼に応えず、台所は静まりかえっていました。らんぼう少年はその時になって初めて母を失ったことを全身で感じ、身体をよじって泣きました。
僕の胸に悲しみが来るまで、ひと夏かかった。その年僕は12センチ背が伸びた(みなみらんぼう)
私が母を亡くしたのは平成4(1992)年です。今年は平成14年ですからちょうど10年になります。随分前のことのようにも、あるいはついこの間のことのようにも思えます。
あと10年過ぎても、心の中にあるこの“洞穴”はきっと埋まらないのだろう、という気がします。