もののいい方は、時代を経ることで変わります。その変わり方は、自然なものと、そうでないものとに分けられます。
人々の生活に根差して変化し、気づいたら変わっていた、というのが自然な変わり方です。そうでない場合は、変えることに意図を持ちます。
今ではこういういい方が少なくなっているかもしれません。
男性が男性に、女性が女性に愛情を持つ場合は、「同性愛」といいました。どうでしょう。今、こんないい方で、その傾向を持つ人をいうでしょうか。
いつのころからか、その代わりとして、LGBTといういい方が登場しました。また、トランスジェンダーなどともいったりします。しかし、本質は「同性愛」と変わらないのでは、と私は考えています。
「同性愛」という語の響きが、それを耳にしたときに何かを刺激するから、LGBTやトランスジェンダーに「逃げ」て、本質を曖昧にしているように感じます。
同性愛は、昔からありました。
岡本綺堂の『半七捕り物帳』に毎日接しています。この捕り物帳に、『唐人飴』という話があります。
舞台は青山です。今はお洒落な街といったイメージを持たれる青山ですが、半七が生きた時代は、「場末の屋敷町」だったようです。
そして、原宿には、その辺に睨みを利かせる顔役がいるといった設定です。
種明かしをするわけにはいきませんが、この話には、同性愛の人物が登場します。それを、綺堂は次のように書いています。
こんにちではなんと云うか知りませんが、昔はそういう女を『男女(おめ)』とか『男女さん』とか云っていました。もちろん、滅多にあるものじゃあありませんが、たまにはそういう変わり者があって、時々に問題を起こすことがあります。
今、「男女」「男女さん」といっても、誰にも通じないでしょうね。今では、「同性愛」といういい方も遠ざけられているわけですから。
本作を綺堂が書いたのは1986年です。ちょうど40年前です。綺堂は、老人になっていた半七に、そういう者は「滅多にあるものじゃあありません」といわせています。
マスメディアなどは、特別変わったことではないと人々に植え付けたいようですが、40年経った今も、男性や女性が同性にだけ愛情を持つというのは、「滅多にあるものじゃない」と私も思います。
もちろん、その傾向を持つ人がいてもかまいません。しかし、それは当人同士のことで、社会を挙げて、それを「支援」するのはヘンなことだと思います。
どこまでいっても、「変わり者」同士の話にとどめておくべきでしょう。
引け目を感じることはないですが、それを当人たちから声高にいわれる筋合いのことではありません。部外者の私としては、どうぞご自由に、としかいえません。
