また、松本清張の短編集を、Amazonの電子書籍で読みました。読んだのは、『延命の負債』です。
この短編集には、次の12作品が収録されています。
- 延命の負債
- 湖畔の人
- ひとり旅
- 九十九里浜
- 賞
- 春の血
- いきものの殻
- 津ノ国屋
- 子連れ
- 余生の幅
- 月
どの作品も、殺人事件は起きません。生身の人間の中で起こる心の葛藤が描かれています。
清張の作品は、ハッピーエンドで終わるものはほとんどないように思います。それが殺人事件を扱ったもので、復讐劇を主人公が成し遂げても、主人公が幸せを得ることはありません。
本短編集で描かれる人物は陽の当たらない道を歩く者が多く、作家になるまで同じような生き方をしたのであろう清張の影法師のように感じないでもありません。
今回は、短編集の最後を飾る『月』を取り上げることにします。
本作がいつ頃書かれ、何に発表されたのか私は知りません。読んだことがない人が多い作品であろうと思います。
描かれるのは、太平洋戦争前後の時代です。
主人公は、伊豆亨という男です。妻と二人、東京の下町に暮らしています。職業は女子大の教師で、話のはじまりは、60歳です。妻との間に子供はいません。
伊豆の唯一の誇りは、谷岡キ(「異」の文字の上に「北」を載せた文字)山(たにおか・きざん)を恩師に持つことです。
谷岡は、専門が上代史で、ほかに考古学、人類学、仏教美術、地誌学、民俗学など多方面に見識を持つとされた明治の学者です。
谷岡は時の権力者や財閥とも結びつきを持ち、官学の大御所といったところです。
谷岡の下で学ぶ機会を得たことで、女子大教師の職に就くことができたといえましょう。
谷岡の門下からは夥しい俊英が排出され、専門分野を細分化し、それぞれに一家を成すまでになっています。
そんな中にあり、伊豆は目に見えた功績を挙げることがなく、ほとんど陽の当たらない境遇に、忘れられたように生きています。
年に数度、恩師を囲む集いがもたれ、伊豆は気が進まないものの、それに参加してはみます。が、そのたびに悲哀を味わいます。
仲間の輪に伊豆が加わると、それまで活発に行われていた話が静まってしまい、白けた空気に変わるといった具合です。疫病神のように思われている伊豆は、その場から逃げ去りたくなります。
伊豆の陰気な性格は、生まれ持ったのでもなかったかもしれません。伊豆が若かりし頃に犯したひとつの過ちが、その傾向と、彼の人生を決めたと見ることもできるからです。
江戸時代のある藩で発見された古代中国のものとされた「印象」を考察する恩師の書物が、伊豆が若かった頃に発表され、論争が起きます。
ある藩の百姓が農作業のとき、偶然、土の中からそれを掘り起こします。恩師の谷岡は、掘り出されたものは、古代中国の貴重な印象に違いない、と結論付け、書物にそう書きます。
権威の象徴であった谷岡の考察だったため、従うものがあとに続き、気がつけば、その不確かな「印象」こそが、古代の日本と中国の交流を裏付ける物的証拠とされるまでになります。
学会では、その「印象」を偽物と見る考えもありましたが、谷岡の存在に遠慮し、大きな声に発展することはありません。
谷岡の絶対的支配下にあった若き日の伊豆ではありましたが、自の内面の声に耳を傾けることができた男だったのでしょう。恩師の考察に大いなる疑問を持ちます。それが谷岡の耳に入り、厳しい叱責を受けます。
あらゆる分野への人事権も握っていたであろう谷岡に、「君は将来、性に合った歴史地理以外には手を出さぬことだな」と絶対的命令を受けた伊豆は、それ以外への道が閉ざされます。
谷岡に決められた歴史地理学は華々しい分野ではなく、以後の伊豆は、誰に注目されることもなく、60まで生きてきたのでした。
その伊豆に、予期せぬ出会いが待っていました。集めた資料の清書をさせるため、自分が教える女子大の学生にそれを任せたのが出会いのきっかけです。
女子大は青山綾子といい、伊豆とは40歳の開きがありました。
伊豆がする仕事は、大それた学問などではなく、郷土史に過ぎないと蔑まれていました。そういわれても、伊豆はそれ以外に自分のなすべきことがなく、黙々と続けるよりほかにないのです。
歳をとり、病気をしたばかりの伊豆は、資料を書き写すのを億劫に感じ、たまたま知った綾子に自分が書いたものを清書させることをしてみます。すると、小さい頃から習字が好きで、今も書道の先生について稽古をしているという綾子は、綺麗な文字で、丁寧に仕上げてくれるのでした。
綾子を、清張は次のように次のように紹介するだけです。
綾子 は それほど の 美人 では なかっ た が、 眼 の 大きい、 浅黒い 顔 で、 肉 づき の いい 身体 を し て い た。
★松本 清張. 延命の負債 (角川文庫) (Kindle の位置No.3114-3115). 角川書店. Kindle 版.
この表現から、どのようなイメージを持つかは、読む人それぞれに委ねられます。私は、芯の強い、可愛げのある女性像をイメージしました。
綾子に清書を任せるようになって1年経った頃、綾子から意外な提案を受けます。地誌の研究をするにしても、全国を網羅したものでなく、武蔵国だけにしぼったらどうか、というものです。
伊豆は綾子の提案を聞き、なるほどと感心します。伊豆は綾子の進言を受け入れ、武蔵国の地誌をまとめ上げることを決意します。それまでほとんど惰性のように続けてきた研究が、希望を持って続けられるようになります。
そんな研究を伊豆がしていることが、歴史ものを出版する出版社に伝わり、15、6巻の出版物に話がまとまります。
俄然やる気になった伊豆は、図書館や資料保存所に足しげく通うことになりますが、彼に、助手のように従う綾子を、変な目で見る者が増えます。伊豆が年甲斐もなく、綾子と関係を持つように邪推する目です。
二人は研究者と助手でしかなく、それ以外はなんの感情も持っていなかったのです。
伊豆の妻まで邪推するようになり、伊豆の自宅に綾子が来ようものなら、あからさまに嫌な顔をします。
そうこうするうち、綾子は大学を卒業し、半年ほど清書の手伝いをしたあと、郷里の九州へ戻っていきます。
さすがに、心に穴が開いたように感じた伊豆のもとに、綾子から連絡が届きます。そこには、結婚したことが簡単に書かれていただけでした。
綾子に焼きもちを焼いた妻を病死でなくし、独りきりとなりました。伊豆ももう65です。
太平洋戦争の戦火が激しくなり、伊豆が暮らす東京の下町のあたりも、空襲に怯えなければならない状況になります。
伊豆は、出版のために書き溜めた大量の原稿を、戦火で失うことは絶対に避けようと考えます。しかし、そのための術を持たないのです。
絶体絶命の彼に、救いの手が差し伸べられます。その手は、九州の綾子からでした。
綾子の結婚生活はわずか数カ月で自分から終止符を打ち、今は独りで暮らしていると手紙で伝えます。家は九州の片田舎にあり、空襲を受けることもないだろうから、研究原稿を持って、ぜひこちらに疎開してくださいと訴えています。
清張が作り上げた空想話ではありますが、伊豆がようやく救われたと思い、綾子と末永く幸せに暮らすことを願わずにはいられなくなります。
九州へ渡って綾子と再会した伊豆にどんな運命が待っているかは、ご自分でお読みなり、確認なさってみてください。