自民党の西田昌司参議院議員(1958~)の、「ひめゆり学徒隊」をはじめとした沖縄戦への見解が問題視されました。
私は不勉強なため、ひめゆり学徒隊のことは聴いて知っていますが、実態はほとんど知りません。
そこで、ネットの記述を頼りに、付け焼刃で、にわか勉強しました。主に、ネットの事典ウィキペディアに書かれていることを参考にしています。
まず、キーポイントとなる「ひめゆり学徒隊」ですが、沖縄に入った日本軍の兵士らがこの呼称で彼女らを呼ぶことはなかったそうです。その代わりに、「学生さん」とか「学徒」などと呼んでいたそうです。
のちにひめゆり学徒隊と呼ばれることになる女子学生は、先の大戦で日本軍の敗色が濃厚となっていた時期、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員240名(教師18名・生徒222名)が、看護訓練ののち、看護要員として動員されています。
今に残る「ひめゆり」の由来についてもウィキペディアに書かれています。
沖縄県立第一高等女学校には「乙姫」、沖縄師範学校女子部には「白百合」という校誌があり、そのふたつを組み合わせて「姫百合学徒隊」と名づけられ、それが戦後になって平仮名の「ひめゆり学徒隊」として定着したようです。
米軍が沖縄に上陸することを見込み、沖縄陸軍病院は、地下に横穴の壕を40ほど造り、2段ベッドを備え付けて、患者を収容したそうです。
想像するに、過酷な状況です。照明は限られ、暗く、息苦しそうな環境下での看護になったでしょう。
そのような状況で看護にあたったのがひめゆり学徒隊ということになります。
日本軍の戦況はいよいよ厳しくなります。そして、終戦の年の6月18日、ひめゆり学徒隊に突如、解散命令が出されます。その日まで患者の看護にあたっていた女生徒らの任を解いたことです。
しかし、その頃には、沖縄の地上の多くが米軍に包囲されており、壕から外へ出ることは死に直結しかねません。
ウィキペディアには、解散命令が出されて約1週間で、240名の80%が亡くなったとあります。
ひめゆり学徒隊についてざっと確認したあと、西田議員の発言の考察に移ります。
西田氏の発言は、今月3日、沖縄の那覇市内で開かれたシンポジウムに、記念講演者として招かれた西田氏が、講演した中でありました。
本シンポジウムの主催は、沖縄県神社庁と神道政治連盟沖縄県本部、日本会議沖縄県本部が、自民党沖縄県連と共催されたものです。
西田氏の発言がこのような形で表に出ることになったのかはわかりません。シンポジウムが終わったあとに問題視されています。
今月8日の朝日新聞記事によると、シンポジウムに参加した複数の人から、西田氏の次のような発言が明らかにされています。
(何十年か前に訪れたというひめゆりの塔を指し)今はどうか知らないが、ひどい。日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆりの隊が死ぬことになっちゃった。そして、アメリカが入ってきて沖縄が解放された。そういう文脈で(説明を)書いている。
沖縄の場合、地上戦の解釈も含めてかなりむちゃくちゃな教育をしている。自分たちが納得できる歴史を作らないと。
西田氏は、自身の発言が問題視されたあと、7日に東京都内で開いた記者会見では、自身の意図を次のように述べたとも朝日は書いています。
日本軍が(沖縄に)入って戦争が始まり、アメリカが入って平和になったという文脈では、沖縄の人々は救われないという趣旨の話をした。
西田氏の発言がどのように受け止められ、どんな反発へと発展したのか、私は詳しいことを知りません。
西田氏の発言にある「ひめゆりの塔」は、沖縄戦の激戦地である糸満市にあります。塔というと大きなものを創造しがちですが、実際には数十センチの高さだそうです。
関係者によれば、塔の近くには、1975年に建立された石碑があるものの、それらに、西田氏が指摘したような「日本軍によって学徒が死に、米軍によって解放された」といった記述はないそうです。
西田氏は9日、国会内で記者会見を開き、ひめゆりの塔の展示内容についての発言を、「丁寧な説明なしに、ひめゆりの塔の名前を出して講演したこと自体、非常に不適切であった」と謝罪したことを、朝日新聞が昨日、報じています。
私は西田氏の発言に対する発言をいちいち承知しているわけではありません。もしかしたらですが、反発する人の中には、次のように誤解している人がいるかもしれないと考えました。
「先の大戦の沖縄戦において、日本軍が沖縄に入って行ったことでひめゆり学徒隊が死ぬことが起きてしまい、米軍が入っ来てくれたことで沖縄はようやく解放された」と西田氏が発言したのだ、と。
本問題を取り上げた昨日の朝日の記事には、「体験者『許すわけには』」の小見出しの下、9日に、那覇市で記者会見を開いた沖縄戦体験らから、90歳になるひとりの体験者の話を記事にしています。
その男性が10歳のときに米軍が沖縄本島に上陸したそうです。家族は米軍の攻撃から逃げ回り、父と一晩がかりで壕を掘ったそうです。
しかし、それを見つけた日本兵によってそこから追い出されてしまいます。3歳だった弟が、米軍の艦砲射撃で亡くなったそうです。
その男性が次のように語ったと記事にあります。
西田議員が講演で述べたような「アメリカが入ってきて、沖縄が解放された」とは感じなかった。
これを読んで、もしかしたら、西田氏の発言を間違って受け止める人がいるのかもしれないと感じました。
西田氏が講演で述べたことは、男性が10歳のときに体験して感じたことと同じことを述べているだけです。「米軍が沖縄を解放した」としているとすれば、それは「ひどい(話だ)」といったのです。
90歳の男性が記者会見で述べたのと同じことを、西田氏がシンポジウムで発言したということです。沖縄戦の解釈では、90歳の男性と西田氏は考え方を共有しているということです。
沖縄県の玉城デニー知事は、今回の騒動を受け、報道陣に次のようなコメントは発表したと朝日の同じ記事内にあります。
(西田氏の)発言は戦争体験者や遺族、県民の心を深く傷つけ、憤りを禁じ得ない。(中略)ひめゆり平和祈念資料館などを改めて訪れ、県民の思いに真摯に向き合って頂きたい。
沖縄県の玉城知事は、西田氏の発言のどの部分を指してこのようなコメントを発表したのでしょうか。まさかとは思いますが、90歳の体験者と同じような勘違いをされているのであれば、早急に訂正されることをお勧めします。
西田氏は、沖縄が米軍によって解放されたなどとするのであれば「けしからん話だ」と発言されたことになるわけなのです。
そうした発言に「憤りを禁じ得ない」のであれば、どのような考え方や発言を望むのですか?
「沖縄が米軍によって解放された」とでも発言すれば良いのでしょうか?
まさか、沖縄で戦後、そのような教育をしていませんよね?