朝日新聞土曜版に「私のThe Best!」というコーナーがあります。
本コーナーは、毎回ひとりの有名人が登場し、その人が愛用する品などが取り上げられます。今回、本コーナーに登場したのは俳優の加賀まりこ(1943~)です。
加賀が提示する「The Best!」はほかの人とは違い、モノではなく人です。それがどんな人かは見出しを見ればわかります。
人の生きざまというのは、当人の意思に拘わらず、育った環境に知らず知らずのうちに影響を受けているものでしょう。
加賀の母の母、つまり母方の祖母は、娘(加賀の母)が10歳のときに離婚しています。祖母は東京・神田(かんだ)で料亭を営んでいため、娘の世話は乳母に任せたそうです。
想像するに、加賀の母は、両親の温かい愛情を受けずに成長していったと思われもなくありません。その環境が、加賀の母に、人というのは、自分の肉親であっても、自分の思うようにはならないものといった考えを深く植え付けたのではないでしょうか。
加賀の母が結婚相手に選んだのは、映画会社で働く男性です。加賀は父について、次のように話しています。
1カ月分の給料でバーバリーのコートを買うような人
加賀の母は、夫にも多くを期待したり、求めたりしなかったのでしょう。自分が考えてもどうにもならないことは、すっぱり諦めることができた人だったのかもしれません。
加賀が子供の頃は、家には映画関係者が集まり、にぎやかだったそうです。しかし、母親がそのにぎやかな輪に加わることをなかったのでした。
そういえば、以前の本コーナーで書いたことがあるかもしれません。似たようなところが俳優の渥美清(1928~1996)にあったことをです。
NHKで放送されたドキュメンタリーで見たことがあります。渥美が長年主演した映画『男はつらいよ』シリーズは、それが長く続いたことで、監督の山田洋次(1931~)をはじめとする「山田組」は、家族のような絆で結ばれていたでしょう。
撮影が始まると、必ず一同が揃い、にぎやかに食事をするのが決まりとなっているというようなことでした。シリーズに脇役で出演する関敬六(1928~)がみんなの笑いを誘うようなことをいい、一番下座に座っている山田洋次が嬉しそうに笑っている姿が印象に残っています。
渥美は、毎回ではないでしょうが、その種の宴会を好まず、独りで別の部屋にいて、にぎやかな宴会が終わるのを待っているというような話でした。
子どもたちにも不思議なぐらい干渉しなかった。
と加賀が語っています。
夕飯の時間が近づけば、母親が「ご飯よ」と迎えに来たりするものです。加賀が子供の頃、母が迎えに来ることはありませんでした。
加賀はそのことで心配になり、7歳の時に家出をします。加賀は交番に保護されます。迎えに来た母は、加賀を優しく抱きしめるようなことをしませんでした。
加賀が高校生になり、授業をさぼって六本木へ遊びに行くようなことをするようになります。そんな加賀にも母は何もいいません。加賀が学校をやめたいといえば、「じゃあやめなさい」で終わりです。
加賀の「The Best!」を取り上げた回は次のように結ばれます。
頼りにならない夫や自分勝手な子どもたちに淡々と接していた母の生き方から、孤独を引き入れることや「求めすぎない幸せ」を教わったと思っています。
加賀の母は晩年、「ぽっくり逝く」ことを願っています。人生の最後の最後に、母の願いが叶ったといえましょう。
90歳になった年の夏の朝、熱っぽいことを訴えた母に、仕事が休みで家にいた加賀は、冷蔵庫に入っていた桃を剥きます。それを2口食べます。
その日の午後、往診に来た医師が胸に聴診器を当てると、「ウッ」と声を出し、そのまま息を引き取ったそうです。
自分の死を淡々と迎えられる人はいません。しかし、加賀の母は、それに近い心境で自分の死さえも淡々と受け入れることができたのでしょうか。
人は、自分の思い通りにならないことを悩み、「どうして自分だけが」と神を恨んだりします。
しかし、自分に起こることをすべて自然に受け入れることができたら、自分で自分を苦しめることが減ります。恨んでいるつもりの神も、自分が自分の中に作り上げた神で、それは自分です。
だから、架空の神を恨むことは、自分で自分自身に不満をぶつけているのと同じです。
はじめに書いたように、自分が育ってきた環境が自分の生きざまを作っているといえましょう。だから、加賀の母のように、物事を淡々と受け入れられる生き方を自分もしたいと思っても、なかなかそのような心境になれるものではありません。
加賀も加賀自身の人生をここまで歩んできました。自分の母の生き方を長年見て、学ぶところが多かったでしょう。しかし、加賀であっても、加賀の母のようには生きられないのだと思います。
どのように生きていくか、いけるかは、自分の中に蓄えられた能力の範囲内にならざるを得ません。