昨日、Yahoo!ニュースで記事がひとつ目に入りました。ある人の発言を話題として扱ってニュースにしたものです。
その話題を提供したのは、ネットの大規模掲示板「2ちゃんねる」のサービスを始めたことで知られる「ひろゆき」こと西村博之氏(1976~)です。
私は西村氏や「ホリエモン」こと堀江貴文氏(1972~)が登場するニュースはなるべく目に入れないようにしています。しかし、今回は内容に興味を持ち、下に貼り付けた記事を読みました。
記事によると、西村氏の発言は、彼が生出演したABEMAのネット番組”Abema Prime”で、ある事柄に反応して飛び出しています。
ひとりの女性バイオリニストが、SNSのXに投稿したものが取り上げられます。その女性は、音楽大学を出ても、その世界で収入を得て生活していくのがいかに大変なことであるかについて書いていたそうです。
この投稿を紹介したあと、西村氏が次のようにコメントします。
音大出て音楽で食えないとか、美大出て絵を描いて食えないとか、日本文学科行って文学で食えないとか、当たり前なんで。そりゃ、趣味選んだら食えないのは当然でしょ?って思いますね.
西村氏の発言を知り、人間が根源的に持つ欲求のひとつについて彼は考えたことがないか、理解しようとしていないように感じました。
私はそれを満たすのに学校教育が必要であるとは考えません。私が考える、人間が根源的に持つと考える欲求のひとつは、何かを表現したいという欲求です。
学校時代に、スペイン北部にあるアルタミラ洞窟に古代人が描いた壁画があることを習うか、話を聞いて知っているでしょう。
その壁画を誰がどんな目的で描いたか私は知りません。何か特別な意味があったのかもしれません。突き詰めて考えると、それを描いた人にそれを描きたい欲求が生まれ、その結果として描かれた絵が残っただけではとシンプルに想像します。
私が自分のサイトを開設したのは1999年10月17日です。私が初めてPCを使い始めたのは同年5月です。PCを使うようになってすぐに、自分のサイトを持ちたいと思いました。
自分でサイトを構築するため、HTMLを易しく解説した本を一冊購入し、そこに書かれていることを学んだうえ、自分でテキストファイルにHTMLを書き、自分のサイトを作りました。
以来、本サイトの運営を続けています。今年の10月17日になれば丸26年です。
2013年2月からは、WordPressを利用した運営に移行しました。2016年2月に独自ドメイン(indy-muti.com)を取得し、それへ移行する際、私のミスで、3年間分の更新をすべて失っています。
本サイトのメインコンテンツである「日々の独り言」は開設当初から続けるコンテンツです。そのコンテンツで、今から22年前に、ひとりの米国人男性を取り上げました。
この名前を聞いただけで、どんな男性か思いあたった人はいるでしょうか? 男は生涯独身で、同じアパートに40年間暮らし、雑役夫として生きました。
ダーガーは、雑役夫の仕事をしつつ、人知れず、ひとつの表現をするために、生涯を捧げました。
ダーガーが81歳で亡くなったとき、彼の部屋にはさまざまな物が溢れかえっていました。彼について書かれたネットの事典ウィキペディアの記述をそのまま紹介します。
十字架、壊れたおもちゃ、テープで張り合わせたいくつもの眼鏡、左右不揃いのボロ靴、旧式の蓄音機にレコードの山といった、40年分のごみとジャンクの集積だった。紐で束ねた新聞や雑誌の束は天井に届くほどに積み上げられ、床には消化薬の空ビンが転がっていた[1]。
彼には収集癖があったのでしょう。
ダーガーは旅行鞄を残していました。その中には、彼の表現行為の集大成といえる15154ページのテキストと、300枚の挿絵が詰め込まれていたのです。
これらのテキストと挿絵は、『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』を書いたテキストとその挿絵です。
彼はそれを19歳のときに始め、亡くなるまでの約60年間に書き続けています。そして、彼がその表現活動をすることは、彼以外、誰も知らなかったのです。
彼を突き動かしたのは、それを表現したいという欲求です。
ダーガーを本コーナーで取り上げたのと同じ頃、日本人のひとりの画家を取り上げました。熊谷守一(1880~1977)です。
熊谷は東京美術学校(東京芸術大学美術学科)で学んでいますが、卒業後、一度郷里へ帰っています。彼の友人らが熊谷のことを心配し、東京へ戻るよう誘ったことがあったと記憶しています。
熊谷は東京へ戻ったあと、結婚し、子供を何人かもうけています。子供のひとりを幼くして亡くしました。その頃は貧しくて、満足な治療を受けさせられなかったのです。
晩年が迫っても裕福な暮らしはしていません。
当時の映像が残り、それをNHK教育(NHK Eテレ)の『日曜美術館』で見たことがあります。
その頃は、自宅から外へ出ることはほとんどなかったそうです。庭には木々や植物が生い茂り、ちょっとした森のように見えます。その、彼にとっての「自然の楽園」に浸り、蟻やカマキリなどの昆虫を観察したりして日々を過ごしています。
19世紀末にかけてのフランスに生きた画家、ギュスターヴ・モロー(1826~1898)は、美術学校で学んでいますが、彼の作風は彼独自のものです。
モローが活動する頃は、印象派の作風や作家が脚光を集めており、彼らは戸外に出て、作品を制作しています。
モローはそんな彼らに背を向けるように、自宅に籠って幻想的な作品を独りで描きました。
彼が残した膨大な作品は、一枚も手放さず、自宅の壁に所狭しと架けられています。自宅とそれらの作品はモローの意思で国に買い取ってもらいます。彼の自宅は、彼亡きあと、国管理のギュスターヴ・モロー美術館として運営されています。
彼が生前、自分の作品を一枚も手放さずに生活できたのは、彼の生まれた家が裕福で、絵だけを描いていても生活ができたからです。
父亡きあとは、母とふたりで過ごしています。絵の制作に疲れると、母とのチェスで息抜きをしたと伝えられています。
三人の表現者の生きざまを振り返ったあと、冒頭で取り上げた西村氏のコメントを読み返すと、なんと浅はかな、と思わざるを得ません。
趣味選んだら食えないのは当然でしょ?
例えば、ヘンリー・ダーガーの生きざまを見て、同じことをいえるのだろうとかと思います。
表現するといっても、なにも、特別高尚な表現に囚われることもありません。その人が何かを表現したいのであれば、他人のことなど気にせず、自分が表現したいように表現すればいいだけのことです。
そのために、食っていかれなかろうと、他人に何かをいわれなければならないことはありません。大きなお世話です。放っておいてください。
だいたいの場合、近代以降、絵を描こうなどという人は、絵だけ描いていても、生活できる境遇にあるような人ばかりです。たとえば、モローのようにです。
ポール・セザンヌ(1839~1906)も、父親が残した潤沢な財産のもと、何不自由ない生活をしています。
モローにしろセザンヌにしろ、自分の絵を売って生活しようとは考えてもいないのです。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)にしても、自分が描いた絵を売って生活していたわけではありません。ゴッホの作品が売れたのは、生前は一枚だけです。しかも、それを買ったひとりは、彼の知り合いだったと記憶します。
ゴッホは弟のテオに始終手紙を書き、自分の表現のために必要な画材を買うお金を仕送りしてもらっています。
テオにとっては大きな負担となりましたが、ゴッホは絵を描くことに専念できる基盤を得ていたのです。
私は本サイトの運営を始めて今年で25年です。それを始める前は、NHK-FMで平日午後6時台に生放送されたリクエスト番組「夕べのひととき」(東京は「夕べの広場」)を1983年4月から聴き、番組宛にリクエストすることをしています。
自分でリクエスト曲を選び、リクエストカードに書く文章も、私の表現欲求の表れといえましょう。
番組名がその後「サンセットバーク」となり、それが終了する2011年3月末まで、28年間、番組を聴くことと、番組宛のリクエストを続けました。
それと途中から並行するように始めたのが本サイトの運営で、これも、私の表現欲求の表れです。
本サイト運営のためには、文章を書くのが基本です。ほかに、必要となれば自分で撮った写真から画像を作ります。また、自分の声を収録し、それを載せることもあります。ある時期は、声による更新をしました。そのほかに、動画を作ることもします。
こんな風にして、本サイトを運営するだけで、さまざまな表現形態を駆使することができ、これはこれで愉しいものです。
本サイトを離れても、私は毎日、庭に出て写真を撮ることをしています。また、庭で自然の音を収録することも楽しみのひとつです。
これらはどれも収益には結び付きません。でも、そんなことは私にはどうでもいいことです。自分の表現欲求が満たされれば私は幸せなのですから。
それで食っていけなくても、生活が維持できるのであれば、自分の欲求のまま、何かを表現することは、人にとって、根源的に大切なことだを私は考えます。
このあたりのことが、何でも効率で考えるような人には、理解しにくいのかもしれません。