ぶらぶらゴッホと強すぎた兄弟愛

昨夜放送された「ぶらぶら美術・博物館」を録画し、再生させて見ました。今回は、上野公園内にある上野の森美術館で行われています絵画展『ゴッホ展』(2020年1月13日まで。その後、2020年1月25日から3月29日の期間、兵庫県立美術館で開催)に合わせた番組を放送しています。

今回の番組紹介のページの締めくくりには次のように書かれています。

ゴッホの10年間の―短くも濃密な画家人生を辿ります。

フィンセント・ファン・ゴッホは、1890年7月29日に37歳で亡くなっています。その10年ほど前に独自に絵を描き始めたということは、27歳頃のことになりましょう。

それまでに、いろいろなことに手を付けるものもうまくいかず、弟のテオ(テオドルス・ファン・ゴッホ)が画商で仕事を始めたことがおそらくはきっかけとなり、ゴッホが絵の道に進んだのでしょう。

といっても絵の教育は受けたことがなく、はじめは当時の画家たちが描く絵の模倣から入って行ったものと思います。そんな時代を入れて10年の画業をされているだけで、実際のところ、今の私たちが知るゴッホ風作品は、亡くなる直前に描かれたものばかりです。

この番組に限らず、テレビの美術番組を見ていて個人的に不満なのは、技術的な話がほとんど出てこないことです。今週分の紹介に「分厚く激しいタッチはいかにして生まれたのか?」とあったため、ゴッホ特有の厚塗り表現がどのように生み出されたのかといったあたりの話が聞けるかと期待し、録画して見ましたが、最後までその話は出てきませんでした。

ゴッホが現状を打破するため、弟のテオがいたフランスのパリへ渡ったのは、30歳を過ぎてからです。生涯にわたって人間関係に困難を持ったゴッホは、パリのモンマルトルに集まっていた画家仲間ともうまくいかなくなったのか、そこを離れ、フランス南部のアルルへ移り住んでいます。

そこへ移った理由は、ゴッホについて語られるとき必ず出てきます。日本の浮世絵に強い影響を受けた彼は、アルルにまだ見ぬ日本をイメージしたためといわれています。

ゴッホがアルルにいた時期は、1988年2月20日から1899年5月とネットの事典「ウィキペディア」にあります。ゴッホは 1890年7月29日に亡くなるわけですから、人生の最晩年にあたる時期です。

この短い期間に様々なことが起こります。

弟のテオに教えられた画家、ポール・ゴーギャンと共同生活をし、絵画を語り、絵の制作を夢見ます。しかし、2人の関係はすぐにこじれてしまいます。

ゴーギャンがアルルに到着したのが1988年10月23日で、翌月の下旬には関係が緊張しています。

ウィキペディアにある記述を見ますと、絵の制作方法についての考え方が明らかに異なっているのがわかります。ゴーギャンは絵の対象を想像して描くことをゴッホに勧め、自分でもそうしていたようです。

一方のゴッホはといえば、対象物を目の前に置いて描かなければ満足できなかったのでした。

また、肝心の油絵具の扱いが、ゴーギャンの薄塗に対し、ゴッホはよく知られているように極端な厚塗りです。

ゴッホが絵具の厚塗りに強い関心を示すようになったのは、母国オランダの画家のアドルフ・モンティセリであることは、知る人ぞ知る話です。今回の番組でもモンティセリについて触れており、展覧会で彼の作品が展示されています。

私もゴッホの展覧会には関心を持っていますが、入場までの待ち時間が長いのであれば、行くのが億劫です。そうではあっても、モンティセリの作品を間近で見たい欲求はあります。

ゴッホが自分の左耳を切り落とす騒動が起きたのは同年の12月23日です。この時期は、ゴーギャンとの関係もまずくなっており、ゴーギャンとの不仲が騒動の原因とする見方がありますが、もっと深刻なことがあったことも知っておくべきでしょう。

ゴッホの唯一の頼りだった弟のテオの結婚話が進んでいたことです。このことがゴッホの晩年に決定的な打撃を与えたことは間違いないように私は考えています。

ゴッホとテオは異常なほどに手紙のやり取りをしており、2人が交わした手紙の数がおよそ800通に達したと番組でも話していました。通信の手段が手紙に頼っていた時代とはいえ、この数は異常といってもよさそうです。

ここで絵画技法の話を書いておきます。

油絵具で絵を描いたことがある人であれば、この絵具の扱いが難しいことはわかっているでしょう。リンシードやポピーの油で練られた絵具は、水彩絵具やアクリル絵具とは性質が大きく異なり、次に絵具を重ねりできるようになるまで時間を要します。

この絵具を用いながら、ゴッホは短時間で絵を仕上げたと聞きます。ここにゴッホ特有の絵画技法があり、それがゴッホ絵画の最大の魅力といえましょう。

見よう見真似で描いていた頃のゴッホ作品にその魅力はありません。フランスのモンマルトルを離れ、アルルに移り住んだあと、モンティセリの作品を半ば模倣し、編み出した技法といえましょう。

私が最も敬愛する画家に、ゴッホと同じ国に生まれたレンブラントがいます。ゴッホが生まれる200年ほど前に世を去った画家です。

油絵具の厚塗り表現を極めたのがレンブラントで、その魔力が私を引き付けて離さないのです。

レンブラントに通じるような表現方法を、ゴッホがどのように会得したのかわかりませんが、同じ効果を試してみるのもおもしろいでしょう。

油絵具は、絵具の層を重ねるためには、テクニックが必要です。

今回の番組を見ていると、晩年のゴッホの作品の細部が映りました。たとえば、花の静物画です。緑の葉により濃い緑で葉脈を描いています。これをどうやって描いたと思いますか。

日本で油絵具を描くプロの画家の多くやアマチュアの日曜画家は、豚の毛でつくられた硬毛の筆を用いることが多いでしょう。しかし、硬い毛の筆を用いる限り、今書いたような表現は極めて難しくなります。

特に、字を書くように筆を握る限り、塗ったばかりの絵具の上に、鮮やかな色をのせることはできません。それを、ゴッホはどのように実現したのでしょうか。

ゴッホはゴーギャンと違い、対象物を見ながら描くことを好みました。あるときは、自分の靴を描いたりしています。それを短時間で仕上げています。さて、生渇きの絵具の層に、ゴッホはどのように新たな色をのせていったのでしょうか。

私は昨日も油絵具と戯れる時間を持ちました。私の場合はレンブラントを真似、次々に色を置くようなことを試しました。

レンブラントの画集を眺めていて気付くのは、使用している絵具の色数は少ないのに、カンヴァスにのせられた絵具が実にバラエティに富んで見えることです。

その秘密が、ゴッホ最晩年の絵画表現方法へとつながっていくのです。

ゴッホはおそらくはそうしていないでしょうが、晩年のレンブラントは、ある部分に色を付けるために混色して作った色を、使えそうな別の部分にものせることをしています。

生渇きの層に新たな色をのせる技法をレンブラントが持っていたからこそ実現できたことです。そこまでの卓抜さが最晩年のゴッホでも見られませんが、近い技法までは無意識に獲得できていたといえましょう。

ゴッホが精神のバランスを失い、左耳を切り落とすショッキングな出来事を起こす原因が、一般的にいわれているゴーギャンとの不仲でないとすれば、何が原因したのでしょう。

既に書きましたように、私はその原因が弟のテオの結婚にあると睨んでいます。このことは既に本コーナーで書いたことがありますが、本サイトを独自ドメインへ変更する過程で際、私の手違いにより、WordPressで更新した約3年分を失い、それと共に消えてしまいました。

時として、世間から見て結びつきが強すぎる兄弟がいます。音楽の世界では、米国のカーペンターズが有名です。個人的にも好きなアーティストで、兄のリチャード・カーペンターと妹のカレン・カーペンターのデュオは、世界的な人気を博しています。

妹のカレンは、極度の摂食障害を起こしたのち、1983年に32歳という若さで世を去っています。そうなってしまった原因は、おそらくは強すぎた実兄への愛であったろうと私は考えています。

リチャードとカレンが兄妹2人だけの世界にいられた間、妹のカレンの精神は平穏を保っていたでしょう。それが、兄が結婚して妻を持ったことで、カレンは途端に精神のバランスを欠いてしまったのだろうと想像します。

似たような悲劇がゴッホと弟のテオとの間にも起きたと私は見ています。このあたりにつきましては、あれだけやり取りしたゴッホとテオの書簡には何も残されていません。残せなかったほど、それが衝撃的だったと採れなくもありません。

晩年の手紙で、ゴッホはテオに画材を送ってくれるよう盛んに頼んでいたようです。生前には1枚しか売れなかったゴッホは、売れる当てもない絵を日夜製作し、大量のカンヴァスや絵具が必要でした。それを購入するための資金を、テオが1人で賄っていたのです。

その頼りのテオが妻を娶り、子供を設けました。それが何を物語るのか、見ようとしないゴッホにも見えたでしょう。唯一の頼りが失われるかもしれない瀬戸際へゴッホは追いやられた気分になったはずです。

ウィキペディアの記述によりますと、ゴッホは亡くなった年1890年7月6日に、パリ市内で弟のテオと妻のヨー(ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル)と話し合いをしています。

このことは、昨日の「ブラブラ美術館・博物館」でもひとつの話として出てきましたが、知らないはずがない番組進行やの 山田五郎氏も、肝心のことはわからないと話をぼやかして終わりました。その場にいた弟の妻、ヨーは、どんなことがそこで話し合われたか、明らかにしないままでした。

生身の人間同士ですから、その時の気分で、考えている以上のことが口をついて出ることもあります。テオやヨーがゴッホにどんな言葉をかけたのか、あるいはなじったのかわかりません。

ゴッホの死の直前、テオは兄に次のようなことを書いた手紙を送ったそうです。

(テオの妻のヨーの兄の)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しない 。

「議論」と軟らかく表現していますが、実際のところは、感情的な口論が戦わされたことを臭わせます。稼ぎがまるでないゴッホが、弟のテオに金を無心することをなじったりしたのであろうと私は想像します。

弟のテオ以外の人間と関係を良好に結べなかったゴッホが、そのテオをも失いかけ、絶望の淵へ立たされた気分になったであろうと思います。

ゴッホがテオに出した最後の手紙には、次のようなことが綴られたそうです。

君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。

ゴッホはその当時住んでいたオーヴェル=シュル=オワーズへ戻り、『カラスのいる麦畑』などを描いています。

弟夫婦と話し合いをした3週間後の7月27日、ゴッホは銃で自殺を図ります。その2日後の午前1時半頃、ゴッホはこの世に別れを告げました。

兄の自死は弟のテオにも衝撃だったのか、翌年の1月25日、精神病院で亡くなっています。

兄弟の悲劇につながる1890年7月6日にもたれた話し合いの真相を、関係者は何も語らず、墓場まで持っていったことになりましょう。

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