時々、思い出したように、次のような想像をしてみたりすることがあります。
もしもこの世の中から、テレビもラジオも新聞も、ましてや、インターネットも消えてしまったとしたなら、どんな毎日を過ごすことになるのだろう?
と。
今朝の産経新聞「21世紀へ残す本残る本」のコーナーでは、作家の佐伯一麦氏が『ファン・ゴッホ書簡全集』(二見史郎、他訳/みすず書房)という本を紹介しています。
ゴッホはご存じですよね?
そう。あの『向日葵』の絵でも知られるオランダの画家です。その彼が弟のテオ(テオドルス・ファン・ゴッホ)に宛てて、実にマメに手紙を書いていたことはよく知られています。その書簡集を一冊の本にまとめたのが上の一冊というわけです。
佐伯氏にとってその本は、キリスト教者にとっての『聖書』の如き一冊なのだそうで、座右にいつも置いては、事あるごとに繙いているのだそうです。
その中から、佐伯氏は次の書簡を紹介しています。少し長い引用になってしまいますが、書いてみたいと思います。
夜が来る。戸は暗い洞窟の入り口の様に開け放たれる。後ろの板張りの裂け目から、空の光が僅かにさす。(略)これが、昨日ボクが聞いたシンフォニィの終曲だ。一日は夢の様に過ぎた。僕はこの悲しい音楽にすっかり気を奪われ、文字通り飲み食いさえ忘れていた。(略)一日は終わった。明け方から夕方まで、と言うより寧ろ或る夜から次の夜まで、僕はこのシンフォニィの中で我を忘れた。家に還って、炉の前に坐る。腹が減っているのに気が付く、減茶々々に減っているのに気が付く。しかし、もう様子はわかったろう。例えば、傑作百点の展覧会から還って来た様な感じだよ。こんな一日から、何を持って還るか。ただ幾枚かのスケッチだ。併し、もう一つある。働こうという静かな熱だ。
生きた時代が違うとはいえ、同じ24時間とは思えない、何かぎっしりと時間が凝縮された一日といような気がしませんか?
ゴッホは、気兼ねもいらず、モデル料も請求されない自分自身をモデルに『自画像』を数多く描いています。そしてそれは、佐伯氏にいわせると、「これ見よがしな感覚や技巧、深遠さを装った見念」によって描いたのではなく、「生活を通した感情によって」描いた、のだといいます。
つまりは、当たり前のものを当たり前に描いた、といえるのでしょうか。そしてそこには、自分自身をもじっと視つめるもう一人の自分がいた、ということになるのでしょう。
テレビやネットなど、多くのヴァーチャルなメディアに囲まれた日常を送っていますと、日々の些細な心の揺れといったものに対しても益々鈍感になっていってしまうように感じます。
ゴッホはまた、自分自身を見つめる、次のような文章も残しているそうです。
女のように感じやすく、鋭敏で、勘がよい。自分自身の苦しみにも感じやすいのだが、常に生き生きとして、自意識を失わず、冷淡なストイシズムもなく、生命への悔蔑も持たぬ。