向田邦子(1929~1981)という脚本家がいました。彼女が、旅先の外国で飛行機事故によって亡くなって今年で44年です。この分野に興味を持つ人でなければ、50代より下の世代はこの脚本家を知らないかもしれません。
彼女が書いた脚本はテレビドラマです。映画と違って、あとで見直すことが難しいです。そういう意味では、テレビドラマを中心に脚本を書く人は、あとで振り返ってもらう機会が少ないかもしれません。
私も向田が手掛けたテレビドラマはほとんど見ていませんね。
向田を取り上げてみようと思ったのは、朝日新聞土曜版で、原武史氏(1962~)が鉄道にまつわるエピソードを書く「歴史のダイヤグラム」の本日分で向田のエピソードを書いているからです。
このコーナーからは、先週、漫画家のつげ義春(1937~)について書いたばかりです。
向田について記録されたネットの事典ウィキペディアを見ると、向田の子供時代は、父親が転勤族だったため、全国各地を転々としていたようです。
原氏が書いたエピソードは1950年頃のことです。その頃、向田は家族と、東京の久我山(くがやま)に住んでいます。父親が働く生命保険会社の社宅があったからです。
向田が住んだ社宅は駅の近くにあったそうですが、昭和25年当時、駅の周りには竹藪があったりしたのでしょう。
これから書くエピソードの出来事が起きたとき、向田は実践女学校を卒業し、社長秘書の仕事をしながら、夜間の専門学校で英語を学んでいたそうです。
向田が通った学校は1949年に今の実践女子大になっています。ちょうど、切り替わる頃に向田はその学校で学んだことになりましょうか。
当時の井の頭線には急行が走っておらず、各駅停車だけだったようです。久我山駅は渋谷駅から乗れば13番目の駅です。
その年の夏のある夜、夜学の専門学校の帰り、駅に降りて家に向かって歩いていました。その彼女をつけて歩く男がいます。男は向田に刃物をつきつけ、竹藪に引きずり込んで乱暴しようとしました。
そのときのことが、向田が書いたエッセイ集『霊長類ヒト科動物図鑑』に次のように書かれているそうです。
私は左手のカメラを大きく振った。カメラは男の腹に当(あた)り、私は彼の手を振り切って駆け出した。
向田は難を逃れます。向田がおもしろいと思うのは、そのあとです。
普通だったら、「怖かった」で終わってしまうかもしれません。
向田は「男の人相風体をおぼろげに覚えて」います。悔しい思いを下向田は、その男を捕まえてやろうと決意するのです。
向田は、男が自分と同じ路線を利用するのであれば、電車の中で見つけられるだろうと考えます。そして、考えただけでなく、それを実行に移すのです。
向田が当時通っていた夜間の専門学校は、自分が降りる久我山駅より先の吉祥寺(きちじょうじ)駅周辺にあったのでしょうか。でなければ、自分を襲おうとした男が、「吉祥寺ら同じ電車に乗った」ことにはならないからです。
向田が大学を出たあとに社長秘書をした会社は東京の四谷にありました。
ということは、勤めを終えたあと、自分が降りる久我山駅よりも先の吉祥寺にある専門学校へ通い、その帰りに、強姦されそうになったということでしょう。
これはおそらく、私の勘違いです。
私はてっきり、向田が渋谷から井の頭線を使っていたのだとばかり想像していました。そうではなく、現在の中央・総武緩行線に準じる線(当時ですから国鉄になります)を使えば、四ツ谷駅から乗り換えなしで吉祥寺駅まで来れます。そこで降りて、井の頭線で久我山駅まで行くとすれば話が合います。
井の頭線の3両編成の電車は、座ることができる程度の込み具合だったそうです。向田は、吉祥寺駅から久我山駅までの間に、3両の車内を順に見て回ることをします。このあたりの実行力が凄いですね。
勤め先から帰る時間を10分ずつずらしながら電車を利用し、車内を観察して一週間目の夕方、自分を襲った男を見つけることに成功します。男を警察へ突き出すと、男は常習犯であったことがわかり、警察から感謝されます。
これだけでも、一話完結のドラマにできそうです。
もうひとつ、向田のエピソードが書かれていますが、それもここで紹介したら、原武史氏の本日分をすべて紹介してしまうことになるので、遠慮しておきます。