新年になり、本日は1月5日です。明日は月曜日で、世の中が本格的に動き始めるでしょう。
年末年始の期間中、テレビでは相変わらず年末年始特番のような番組が放送されたでしょう。私は関心がないので、どんな番組が放送されたのかも確認していません。
1月の2日と3日には箱根駅伝があり、私も割と熱心にテレビの中継を見てきました。そんな駅伝ですが、このところは興味が半減しています。
強い学校に有力な選手が集まり、いつも同じような学校が好成績を収めて終わるようになったからです。選手のレベルが違えば、レースの前に結果が見えてしまいます。そんなわけで、今年は熱心に見るのをやめました。
その代わりに、ネットの動画共有サイトYouTubeで何か動画を見ようと思いました。しかし、こちらも、悪い意味で、テレビ番組の傾向に近づいてきました。
テレビ番組が視聴率至上主義に走って失敗したことが、YouTubeでも起き始めているのを感じます。少しでも再生回数を稼ごうという魂胆が見え隠れし、視聴意欲を奪います。
そんな事情から、2日と3日に、AmazonのPrime Videoを3本見たことを昨日の更新で書きました。
そのあと、昨日も1本の動画を見ました。あとの2本は1時間少々の短い作品です。
今回は3日に見た『オッペンハイマー(2023)を取り上げます。本作については、日本で公開される前、BSで放送されたときにそれを見て、本コーナーで取り上げています。
本作の出来は評価され、アカデミー賞でも多くの主要部門で受賞しています。
3時間を超える超大作です。このところ、私は昔の古い作品を好んで見ていたので、現代に作られた超大作に接するのは久しぶりとなります。
本作は、「原爆の父」と称されるロバート・オッペンハイマー(1904~1967)の一時期をなぞりつつ、原子爆弾開発の責任者としての責任を問われたことを映像化しています。
マーティン・J・シャーウィン(1937~2021)が書いた伝記『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』を原作に、監督をしたクリストファー・ノーラン(1970~)が脚本も書いています。
ひとりの実在した人間を3時間強の映像作品に収めるのは困難な作業になりましょう。偉人や天才でなくても、ひとりとして、複雑怪奇でない人間はいないからです。
同じ人間であっても、どこに光をあてるかで見え方がまったく異なります。それが、原爆開発を指揮した人間を描くわけですから、英雄的に描いてはならず、否定的だけであっても実像からは離れてしまいます。
かといって、中庸を行き過ぎれば、どっちとらずになってしまいます。
日本公開前に本作を見た人は、一度見ただけでは十分な理解が得られず、二度三度見てようやく見えて来るものがあったと語っているのを知りました。
私はとりあえず一度見ました。今後、二度三度見るかどうかはわかりません。見るとしても、ある程度期間を開けて見ることになるでしょう。
再度見たときは感じ方が変わるかもしれません。一度見た今回の印象では、オッペンハイマーという人物像が描き切れていないように感じました。
印象に残ったのは、原爆開発そのものではなく、彼の女性関係です。
一度目はアグレッシブな女性と関係を持ちます。
現代の作品をあまり見ていない私はその辺の事情をよく知りませんが、その女性がヌードで登場する場面があります。豊満な胸と尻を露わにし、オッペンハイマーにまたがって激しく腰を動かしたりします。
それが、オッペンハイマーとふたりだけの部屋の中で行われるだけなら驚きませんが、公衆の面前で同じことが行われたのには驚きました。
それは、ふたりの関係を象徴的に描くため、幻想の場面として、監督であり脚本を書いたノーランは挿入したのでしょう。
原爆を広島と長崎に投下してから10年ほどのち、米国では赤狩りの嵐が吹き荒れていました。
それはおそらく、極めて政治的なものです。世界大戦が終わり、米国は新たな「敵」が必要となりました。その「敵」に当てはめたのが共産主義です。
「敵」がいなければ、軍需産業は潤いません。米ソ冷戦を「でっちあげる」ことで、兵器を大量に造り続ける口実ができました。
その「赤」の容疑をかけられたオッペンハイマーが、秘密会で執拗な追及を受けます。
狭い一室に、オッペンハイマーを弁護するための弁護士も含め、十人程度の人間が、長いテーブルを囲んで座っています。
その秘密会には関係者が入れ替わり呼ばれ、質問を受けます。
そんなある場面で、上に書いた、信じられないような光景がオッペンハイマーの幻想として描かれます。それらの人間がテーブルを囲む中、オッペンハイマーと恋仲の彼女が、おそらく全裸で抱き合い、セックスをするのです。
いや、セックス行為を演じるのです。
オッペンハイマーが聴聞会で質問を受けているとき、突如、昔の彼女を思い出したとしても、彼女との思い出の象徴がセックスだけしかないのかと思ってしまいます。
また、それをその場面に挟むとしても、それ以前にふたりがセックスするところは撮影してあるので、それを使うこともできたでしょう。
しかし、脚本も書いたノーラン監督は、その場で新たに、ふたりにセックスの演技をさせ、撮影しています。秘密会のメンバーを演じる役者も、心中は穏やかではなかったでしょう。
二度三度見れば納得できるのでしょうか。
殺人事件を扱った作品でありながら、一度も殺人シーンを描かない作家や映画監督がいます。
個人的には、具体的には描かず、読者や観客に想像させるスタイルが好みです。
オッペンハイマーが専門分野の研究に没頭していく様子があまり描かれていません。また、彼が共産主義運動に関り、どのように考え方が変わったのかもよくわかりません。
実在した人間を描くことの難しさは理解しています。それでもなお、疑問や不満がないことはない作品でした。
何度か見たら、この考え方が変わるかもしれません。