昨日(26日)の本コーナーでは、彫刻家の舟越桂(1951~2024)について書きました。
舟越の記事が載っていた日経新聞の同じ面に、CMタレントの顔を持つようになった開高健(1930~1989)との思い出を語る文章が載っています。
それを書かれたのは、開高健記念会理事をされている藤森益弘氏(1947~)です。
開高には、先見の明があったといえましょう。今のサントリーの前身である壽屋に1954年入社し、同社のPR誌「洋酒天国」の編集や広告のコピーを書く仕事をします。
本コーナーで何度か書いた山口瞳(1926~1995)は、開高とつき合いがあり、その縁で開高と同じ職場で仕事をしています。山口が同社に入ったのは1958年ですね。
意外なことに、山口が開高より4歳年上です。
開高はその後作家として活動を始め、それが多忙となり、1963年に退社し、翌1964年、壽屋で同僚だった柳原良平(1931~2015)らとサン・アドという広告会社を立ち上げています。
山口が『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞し、同社を退社したのも1963年です。開高と重なる部分が多いですね。
加えて、壽屋がサントリーと社名を改称したのも1963年です。
山口がもしも作家にならなかったら、開高が始めた広告会社で一緒に働いただろうと思います。
開高との思い出を書いた藤森氏は、大学4年の夏、開高が始めた広告会社の面接を受けています。藤森氏は開高と出身地が同じこともあったからか、開高に気に入られて、面倒をよく見てもらったようです。
後年の開高は、テレビにもよく出演するようになり、開高が出演するサントリーウイスキーのCMが1972年から、開高が亡くなる1989年まで、20本が作られました。
藤森氏の文章には、1980年、開高がニューヨークのハドソン川で釣り上げた大きな魚を抱えた写真が添えられています。
その撮影にも立ち会ったのであろう藤森氏によって、撮影の裏話が書かれています。
その魚はストライプドバスというそうですが、開高は釣ることができなかったそうです。それでは絵にならないからでしょう。近くにあった魚市場で仕入れ、開高が釣ったことにして広告を完成させたそうです。
もうひとつのエピソードも面白いです。
あるCMの撮影をしたとき、開高は撮影用の特級ウイスキー瓶から自分のグラスにウイスキーを注ぎ、それを飲んだ開高は、いかにも満足そうに、「やっぱり特級は違う」といったそうです。
それを見たスタッフのひとりが、正直なことをいってしまいます。下の文章には私の脚色が入っています。
先生が持つ瓶に入っているのは、特級ではなくて、入れ替えた2級のウイスキーが入っています。
一瞬のうちに、冷たい空気に包まれたことは想像に難(かた)くありません。
それを聞いた開高は、内心では困ったと思ったかもしれません。しかし、まったく顔には出さず、次のようにいったそうです。藤森氏の文章そのままではなく、私が脚色を加えています。
さすがサントリーや。2級もうまい。
藤森氏による開高の思い出の最後は、茅ヶ崎市開高健記念館で9月29日まで開催されている展覧会「広告人・開高健の三つの顔」の宣伝です。
開高が出演したCMは独特でした。商品そのものを売り込むことはせず、開高を通して、人のあり方のようなものが短い時間で描かれました。
展覧会場では、CMの映像も紹介されているそうです。それらの映像について、藤森氏は、「考え方に影響を与えるCMという意味では(今の人が見ても)全く色あせていないのではないか」と書いています。
晩年の開高は、物書きとしては悩んでいたでしょう。井伏鱒二(1898~1993)を訪ねたときの映像が残っていますが、そのときも、文章が思うように書けないことを井伏に述べていました。
その一方で、CMの出演などで、開高の露出は多くなりました。開高の心境はどうであったでしょうか。
開高のCMには、そのあたりの彼の葛藤のあとが漂っているかもしれません。