本コーナーで事あるごとに書くように、私は昔から映像に興味を持ちます。家庭用VTRがない時代は、個人が唯一扱えた8ミリ映画を趣味としました。
デジタルで動画を撮る今の時代からは想像できないかもしれません。8ミリフィルムはカートリッジに入っており、一本のフィルムの長さは50フィート(15メートル)で、撮影できる時間は、毎秒18コマで、3分20秒ほどでした。
8ミリを趣味にした時代から、私は「小型映画」という月刊誌を取り、毎月、その雑誌を読むのを楽しみにしました。この雑誌は家庭用VTRの登場により、休刊となり、代わって「ビデオサロン」が登場しました。
家庭用VTRは日本が開発した機器で、ソニーのベータマックスと日本ビクターのVHSの2規格があります。私は迷った末、VHSを使用しました。
VHSは世界のメーカーが採用する日本初の世界基準となり、最終的には世界で9億台以上のVTRが普及しました。
このVHS誕生を描いた番組が今月一日にNHK総合で放送されました。「新プロジェクトX 挑戦者たち 旧作アンコール VHS・執念の逆転劇」という番組で、「プロジェクトX 挑戦者たち」という番組が始まった2000年4月に放送されたものをアンコール放送しています。
私は気になった番組を、昔はVTRで録画しましたので、おそらくはこのときの番組も録画したはずです。しかし、録画済みのビデオテープにカビが生えるなどして、最も多いときで2千本ほどあったビデオテープを途中で半分ほど処分したので、このときの放送も、その処分で消えてしまったかもしれません。
番組の司会進行は、国井雅比古アナウンサー(1949~)と久保純子アナウンサー(1972~)です。画面アスペクト比は4:3で、時代を感じさせます。
今から50年ほど前の1970年、日本の名だたる家電メーカーは、家庭用VTRの開発に着手し、いち早い製品化を目指していました。
当時は業務用のVTRとしてUマチックがありました。私も実はUマチックのVTRを購入し、今も家に残っています。日本ビクターの製品で、ビデオの編集用として、再生専用機と録画機、編集コントローラーがセットになっています。
Uマチックのテープが大きく、VTR本体も大きく、重いです。価格も高価で、それを一般家庭で使うのには無理がありました。そこで、小型化したVTRを製品化できれば、巨額の利益が見込まれていました。
日本のVTR実現のトップを走っていたのはソニーです。優秀な技術者を集め、ソニーの一人勝ちが噂されていました。
そのソニーに挑んだ日本ビクター開発陣を描いたのが今回取り上げる番組です。
ビクターは松下電器(パナソニック)の子会社で、業界では八位の中堅企業でした。その当時の同社は業績が不振で、営業利益が80億円から30億円に減るなど、経営危機に陥っていました。
昭和47(1972)年ということは、各社が家庭用VTR開発にしのぎを削っていた時代です。ビクターは人員削減をせざるを得ない状況にあり、本社にあった業務用VTR開発部門が廃止となり、そこで働いていた技術者50人が、同社の横浜工場内にあるVTR事業本部へ異動となります。
その事業本部で部長をしていたのは高野鎮男(1923~ 1992)です。同部は本社から切り離された独立採算制をとり、本社が製造した業務用VTRを企業やホテルに売り込むのを業務としていました。
同社の業務用VTRは、二台に一台が故障で返品されるなど、とても利益を上げられる状態になく、お荷物の部門と陰口を叩かれていました。
その部の部長に任命された高野は、一年経てば首だと社内で噂され、工場から百メートルほどのところにある居酒屋「きしや」に毎晩ひとりで来ては、酔い潰れるまで飲んでいたということです。
その髙野の下に、本社からお払い箱のようにされた50人の技術者が送られてきたことになりますが、彼らを迎えた髙野は、願ってもない宝を得たと歓迎します。
同社は家庭用VTR開発に加われる状況にはまったくないと目されていましたが、髙野は密かに、自分の社でそれを実現することを心に秘めていたのです。
髙野が本社から来た50人の技術者を宝と感じたのには明確な理由があります。
日本の「テレビの父」とされた天才技術者に高柳健次郎(1899~1990)がいます。髙柳は、世界で初めて、ブラウン管に「イ」の文字を表示させるのに成功したことで知られています。大正十五(1926)年のことです。
髙柳は、戦後、ビクターの技術顧問になります。50人の技術者は、髙柳の手塩にかけた教え子だったのです。
髙野は50人からひとりの技術者を密かに呼び、家庭用VTR開発の極秘計画を持ちかけます。高野に呼ばれたのは、髙柳の右腕だった白石勇磨でした。
本社に隠れて開発するため、それにあたる人間は最小限に絞る必用があります。白石の助言で、ふたりの若手技術者をプロジェクトに加えます。
入社六年目の24歳の梅田弘幸と29歳の大田善彦です。ふたりとも工業高校の出身者です。
家庭用VTRを開発するには少なくとも三年はかかると髙野は踏んでいました。そんな最中、本社から呼び出しを受けます。
本社は2千人の合理化を進めているといって、髙野の部門も、270人いる技術者の三割を削れと迫られます。
髙野はそれでも本社の目を欺いてプロジェクトを進めるため、もう一人、メンバーを引き入れます。事業部の経理課長をしていた大曽根収です。
髙野は大曽根に、とにかく、本社からの追及から逃れられるようにしてくれと頼みます。
その一方で、これまで技術畑一筋だった20人の技術者を営業職に回し、開発費を少しでも稼ぐため、一台でも多く、業務用VTRを売り込んでくれるよう頼みます。
営業部に回った彼らは、企業や有名人のところを回っては、自社のVTRの売り込みをします。それをすることで、どのようなVTRが求められているかを調査します。
ビデオ録画したい人の多くは、スポーツ中継や映画放送を録画した欲求を持っていることがわかります。いずれも録画時間が長いものです。
業務用VTRは長くても一時間しか録画できませんでした。そこで、家庭用VTRは二時間録画できるもので行こうと決めます。
髙野は製品作りに欠かせない中小の工場経営者を居酒屋「きしや」に招いては、酒を振る舞って協力を仰ぎました。そのときの酒は、髙野が軍隊時代に覚えたという「バクダン」です。
ビールを半分ほど注いだジョッキに、小さな空のグラスを浮かべます。そのグラスにウイスキーを注ぎます。グラスがジョッキに沈むと、ビールと溶け合い、強い酒「バクダン」のできあがりです。
昭和49(1974)年12月、髙野は強いショックを受けます。ソニーがのVTR、ベータマックスの開発に成功したとの発表を知ったことによってです。
それを知っても、髙野の部下の若手技術者は、一向に意欲が衰えなかったそうです。
しかし、責任者としての髙野の心中は穏やかでなかったのでしょう。その頃から髙野は、たまの休みの日は、自宅の庭に籠もり、松の盆栽作りに励みました。
ソニーに家庭用VTRの市場を独占されたら、髙野らに残された道がありません。270人の部下には合わせる顔もありません。その時は、社員一人ひとりに、自分が育てた松の植木を渡し、許してもらおうと考えたのです。
松の盆栽の鉢は、一年かけて社員全員分の270鉢にすることができました。
ビクターが家庭用VTRの最終試作機を完成させたのは、ソニーがベータマックスの販売を始めた三カ月後の昭和50(1975)年8月です。髙野は最終試作機まではこぎつけたものの、慎重でした。
髙野は親会社である松下電器社長の松下幸之助(1894~1989)を招き、試作機の出来映えを披露します。その時点で、松下電器は自社でのVTR開発をやめ、ベータマックスに乗る気配がありました。
松下幸之助は髙野らが開発したVHSの出来映えに驚きます。ソニーのベータマックスを百点満点とし、VHSには百五十点をつけ、VHS陣営に加わりました。
髙野はそれに終わらず、家庭用VTR開発を共に戦ったソニー以外のVTR開発部門に、自社のVHS最終試作機を無条件で提供します。それは海外のメーカーにも実施しました。
ビクター一社ではVHS規格を世界に広めるのは難しいと考え、目先の利益を捨てたのです。試作機を提供された企業で独自の開発を加え、VHS規格の総合力が飛躍的に高まり、ソニー一社のベータマックスを大逆転する結果となりました。
私は1980年代はじめにVTRを使い始めました。私が選んだのは、ビクター製家庭用VTRの二号機でした。
この功績により、髙野はVHS発表の十年後の昭和61(1986)年、日本ビクター本社の副社長になります。そして、平成2(1990)年、髙野は副社長を退任しています。退任の送別会には、事業部全員が参加したそうです。
髙野はその二年後の平成4(1992)年1月21日、がんで生を終えました。私事になりますが、私の母が亡くなったのも同じ年です。
髙野の遺体を乗せた霊柩車が、VTR開発部門があった日本ビクター横浜工場を寄る場面が映像に残っています。従業員は全員表に立ち、髙野の遺体が乗る車にお礼とお別れで、頭を垂れていました。
それを見て、私は涙がこぼれました。