昨日の朝日新聞に、「園遊会 名無しの配偶者」と題する記事が載りました。
各界の功労者を天皇・皇后両陛下が招き、四月に皇居で恒例の園遊会が開かれた折りの話です。
異議を唱えたのは、ネットメディア「コリア・フォーカス」編集長の徐台数(ソ・テギョ)氏です。徐氏のことは知らないので、お名前をネットで検索すると、群馬県生まれの在日コリアン3世の方であることがわかりました。
その徐氏が、園遊会に呼ばれたある国会議員の男性がXに投稿した写真を見て、ある違和感を覚えたようです。その国会議員は夫婦で参加し、その記念の意味もあったのでしょう。岸田文雄首相(1957~)夫妻と一緒に収まった記念写真を投稿に添えたそうです。
徐氏が投稿に添えられた写真を見ると、岸田首相以下、名札をつけていたそうです。
その名札に、岸田首相は「内閣総理大臣 岸田文雄」とあるのに、妻の裕子氏の名札は「岸田文雄夫人」とあるだけで、「裕子」の名は記されていないそうです。
おそらくは、一緒に収まった国会議員夫妻も、それに準じた名札になっていたのでしょう。
それに気がついた徐氏が、次のように投稿したそうです。
日本社会の人権意識はどうなってるんだ。園遊会を準備する中で、誰もおかしいと思わなかったのか。
この投稿に応じるように、ネットのSNSで、「パートナーを付属物扱いしている」「失礼だ」との声が広がったと記事は伝えています。
これを受けて、朝日は識者に取材し、同様の指摘をしてもらい、記事に添えています。
私はこの記事を読んで、いくつかの考えを持ちました。
ひとつは、朝日新聞の記者も園遊会の取材に行って同様の光景をおそらく目にしていながら、それが問題だと考えるなら、今までどうして紙面でそれを指摘しなかったのかという疑問です。
徐氏に指摘されるまで、それに気がつかなかったか、それとも、気がついてはいたものの、それが問題だとは考えなかったということでしょうか。
このことを朝日が宮内庁に問い合わせ、同庁総務課報道室から得た回答は次のように始まります。
(皇室の祭典・儀式などを担当する)式部職が前例を参考に作っている。
これをそのまま受け取れば、伝統的にそのように扱ってきたということになるのではありませんか。細部はその年によって違うところもあるのかもしれませんが、基本的には、大きな違いがないように思われます。
朝日の記事には、2022年までは、妻である場合は名札から名前を省く表記だったとあります。ということは、今年四月の園遊会に使われた名札の表記とほぼ同じということになります。
園遊会がいつから開かれるようになったのか私は知りません。それが先の大戦が終わってしばらく経ってからということであれば、七十年以上になるのではありませんか。
この間、この種の指摘がされたとの記憶が私にはありません。ということは、これだけの長期間、マスメディアは問題にしていなかったことになるのではないですか。
それをなぜ、今になって問題だとするのでしょう。
私個人としては、徐氏が指摘するように「人権を蔑ろにしている」とまでは考えません。
名前や肩書は、その人がどのような人であるかを識別するために用いられる「記号」のようなものだと考えます。
たとえば初対面の人に、「裕子です」とだけいわれても、その人がどんな人か認識できません。
岸田首相夫人の裕子さんのことは、お姿とセットで記憶する人が、岸田首相周辺の人には多くいるでしょう。しかし、裕子夫人をよく知らない人は、それが首相の夫人であっても、岸田裕子さんとはなかなか認識できないのではありませんか?
ましてや、世間にそれほど知られていない人の夫人が、名札にフルネームで表記され、招待の主である夫と離れてひとりでいたら、どこどこの誰々と認識するのは難しいように思います。
園遊会に招かれた人が、会場で、以前に会ったことのある人を見かけたら、声をかけ、しばらく会話をすることもあるでしょう。また、昼時は、昼食会が催されたりするでしょう。
その際、名札に「○○夫人」とあれば、初めて会う人であっても、「あの人のご夫人」と一遍でわかり、好都合であることが多いのではなかろうかと想像します。
そして、そのご夫人の名前を知りたいのであれば、それを訊けば済む話のように私は考えます。
人権どうのこうのというのは大げさに感じます。
朝日の記事にある識者の専修大名誉教授は、日本の家制度を持ち出し、個人の名前が軽んじられていると憤っています。
また、もうおひとりの識者である愛知大の女性教授は、「明らかに妻という存在を軽視している」と述べています。
朝日新聞のことでいいますと、女性は男性に比べて、年齢を明らかにすることを憚る傾向を持ちます。このことは、以前に何度か、本コーナーで指摘しています。
たとえば男女三人の意見を紹介するとき、男性の発言者はほぼ完ぺきに、その人のプロふぃーむに生まれた年が表記されているのに対し、女性の発言者は、それが載せられないことが少なくありません。
発言者の年代層は、その発言を読むうえで、必要な要素であることが少なくないと考えるのですが。
愛知大助教授の考えを当てはめれば、「朝日は読者に対して女性発言者において必要な要素を明らかに軽視している」ことになりはしませんか。どうしてそうまでして、女性の年齢を明らかにしないことに朝日は力を注ぐのでしょうか?
岸田首相夫妻の立場が逆転し、裕子夫人が首相をされ、文雄さんが夫の立場で園遊会に出席されたら、文雄さんの名札にはどんな表記がされるのか興味があります。
同種の前例はあるようで、夫が配偶者として出席するときは、氏名だけの名札をつけるようになっているようです。
ということは、岸田首相がもしも同伴者として園遊会に出席する場合は、「岸田文雄」の名札をつけることになるのでしょう。
今はジェンダーの垣根を取り払うことに懸命で、少しでも男女で扱いが違うことが露呈すると、それに激しく反応することが多くなっています。
しかしそれは、時と場合に応じ、また、それぞれの国柄に応じて、もっと柔軟に考えた方が、とげとげしくなくていいように私は考えます。
何でも男女同権というわけにはいかないでしょう。
男女を同等に扱うというのであれば、スポーツも男女の垣根をなくして同じ条件で競わせたらどうでしょう。今は、男女を分け、それぞれだけで競技をさせています。
男女では体力が異なるのですから、一緒に競ったら、女性競技者が男性競技者に劣るのは仕方ありません。そのように分けて競うことに、どうして男女を分けるのだ。男女を一緒にして競わせるのが男女同権だ。それを指せないのは男女差別だと文句をいう声は聞いたことがありません。
文句をいえることだけ文句をいうのは、公平性の点で問題があるように感じます。
はじめにも書いたように、今回のことを朝日が問題にするというのであれば、七十年以上、このことを指摘してこなかった理由をお訊きしたいです。