5月に替わるタイミングで、AmazonのサービスであるAudible(オーディブル)を使い始めたことは本コーナーで書いたばかりです。
その投稿で、村上春樹(1949~)のオーディオブックを最初に利用したように書きましたが、実はその前に、松本清張(1909~1992)の作品を耳で楽しみました。
私が選んだのは『日本の黒い霧(上)』(1960)です。これはノンフィクションで、昔、清張の文学全集の一冊として読んでいます。
今年の3月中旬、NHKの「未解決事件」のシリーズで、戦後間もない昭和24年7月に起きた「下山事件」が取り上げられました。私はうっかりして、この放送があることに気づかず、見過ごしてしまいました。
その後、4月に同じ番組が再放送されたとき、録画して見ました。
『日本の黒い霧(上)』にはこの事件に対する清張の「推理」が書かれています。Amazonの電子書籍版で読もうと思っていたところ、オーディオブックの形式で利用できることがわかり、耳から楽しみました。
村上のエッセイをオーディオブックで楽しんだあと、それについて本コーナーで書いたように、アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)の『シャーロック・ホームズの冒険』がオーディオブックで楽しめるか確かめました。
結論を書けば、あくまでも私に限ってですが、楽しめませんでした。
朗読してくれているのは朗読のプロです。そうしたプロにも個人差があるのかもしれません。その本を朗読する人は、登場人物の声の調子を変えて朗読しています。
たとえば、ホームズに調査の依頼をする高齢の貴族の男性が、原作に「嗄(しゃが)れ声」とあると、それに近い声で会話部分を発音します。
私にはそれが煩わしく聴こえ、それ以上楽しむのをやめました。
そのあと、オーディオブックで楽しめる作品がないかといろいろ検討し、結局のところは、このサービスを最初に利用した時に楽しんだコンテンツに落ち着きました。
それは、小説家や文化人が過去に行った講演会の模様を録音した音声データがオーディオブックになったものです。
それが楽しめたので、続けて何人もの講演を聴き、そのたびに本コーナーで書きました。それが本サイトに残っていないことから、その更新をしたのが2013年から2016年のはじめ頃にかけてであることがわかります。
その期間の投稿が、本サイトを独自ドメインに変更した過程で失ってしまっているからです。
そのときに聴いた講演会の内容は今も憶えています。
たとえば、浅田次郎(1951~)は、本名を絶対に明かさないと話されていました。理由は、自分に不利なことが起こるからというようなことだったと記憶します。
筆名を浅田次郎にした理由についても語っていました。書店の文芸コーナーは多くが五十音順に並べられています。そこで、「あ」から始まる筆名にしたということです。
ところが、そのように考えた「先駆者」がすでにいることを、デビューしてから気がつきます。それは「赤川次郎」(1948~)だったというわけです。
もっとも、赤川次郎は筆名ではなく、本名なわけですけれど。
冒険家でもある椎名誠(1944~)の講演を聴いたことも憶えています。
あれは確か、湿度が極端に低い砂漠地帯かどこかへ行ったときの話だったかと思います。一緒に行った人の背中に、隙間がないほどハエがくっつき、真っ黒に見えたというような話でした。
汗が染みたシャツの水分を求めてハエたちがくっついたといようなことでした。
村松は黒澤明(1910~1998)の『乱』(1985)が評価できないようで、出来の悪さについて熱心に語っていました。
そんなことを思い出し、昨日、昔に聴いた井上ひさし(1934~2010)の講演をもう一度聴きました。名古屋市民会館で1988年11月2日に催された講演を収めたものです。一時間ほどの長さでしたが、とても楽しく聴くことができました。
井上の講演を収めたオーディオブックのタイトルは「小説と芝居について」です。
井上は小説家であると同時に、劇作家、放送作家としても活躍されました。日本のテレビ放送の黎明期に放送されて大変な人気を博した人形劇『ひょっこりひょうたん島』(1964~1969)が井上の作として知られます。
また、井上の作品だけを上演する「こまつ座」も作ったため、井上にとっては、語っても語りつくせない講演となっています。
テレビ番組にもよく出演されたため、その場に合わせて、おもしろい話をする話芸を持たれています。
井上は、演劇だけが持つ魅力を、理論的に話すのではなく、ある情景を想定し、講演を聴く人がある劇を見るように話しています。
ウィリアム・シェイクスピアの『マクベス』を、江守徹(1944~)と杉村春子(1906~1997)の主演で演じられる芝居の観客席に、ひとりの青年が座っていると想像してください。
青年はどこか緊張し、しきりに客席の後方を振り返って見ています。青年の隣りの席は空席のままです。実は、青年には想いを寄せる女性がいて、その女性に青年は、自分の愛を受け入れてくれるのなら、『マクベス』の芝居を見に来てくださいとチケットを渡してあったのです。
果たして彼女が自分の隣りの席に来て座ってくれるのか、それが気になって、青年はそわそわしているのです。
空席の隣りにはどこかの大学の教授が座っています。彼はシェイクスピア研究の権威とされているような男で、今回の芝居を見て、新聞の文芸欄に劇評を書く仕事のために劇場にやって来たのです。
教授の隣りには、お婆さんがひとりで座っています。彼女は芝居にはまったく興味がありません。だから、シェイクスピアのことなんてまったく知りません。
一緒に暮らす息子夫婦がこの芝居の席を取ったものの、用事ができたとかで、代わりにお婆さんがひとりで行ってきてくれといわれ、仕方なく来たというわけです。こんなお婆さんでも芝居を楽しむことはできるでしょうか?
お婆さんの隣りにはひとりの主婦が座っています。彼女の目当ては、大ファンの江守徹です。彼が主演すると聞いて、その芝居の中身そっちのけで、「江守さま」を見に来て、芝居が始まる前から瞳を輝かせています。
芝居が始まっても、青年の隣りに彼女が現れません。少しして、その席に中年の男性が座ります。キャンセルされた席に座った男は中小企業の経営者で、目下のところ、資金難で四苦八苦しています。
このように、具体的に人間を配して話してくれていることで、それを聴く聴衆がその場を想像できます。このあたりは、劇作家であり放送作家でもある井上ならではといえます。
それぞれの日常を背負う彼らが見せられる芝居の出来が悪ければ、芝居を見ながら、自分の今の立場から離れることができません。
しかし、その夜に上演される芝居の出来が非常に良ければ、自分が置かれた現状のことはしばし忘れ、芝居の世界にどっぷりと浸ることになります。
それだけではありません。観客を見ながら演技する舞台俳優は、観客の反応をダイレクトに受け止めます。観客が自分たちの演技に酔いしれていることがわかれば、演じる側はそれに自分の演技で呼応します。
その結果、普段は決してできなかったような演技が軽々と出来てしまい、それを見る観客のボルテージがさらに上昇していくというわけです。
こんな風にして、観客と演技者の相乗効果によって、今後二度とないほどの出来栄えを持つ芝居が、ただの一度、そこに出現することになります。
その醍醐味を知る井上は、それをまた味わいたくて、芝居から離れられないというような話でした。
同じようなことが小説では決して起きません。小説は出版された時点で完結してしまっているからです。読み手がそれを受け取って心の昇華があったとしても、それはその読み手の中だけで起こることです。
読み手の感動なりが小説家にフィードバックされ、さらに素晴らしい小説へと変化するなどということは物理的に起こりようがありません。
日本が欧米に比べて、芝居を楽しむ環境が著しく劣っていることも語っています。そのことについても、それを聴いたあと、本コーナーで書いたのを憶えています。
日本のサラリーマンは遠距離を電車で通勤する人が多く、一旦家に戻ってシャワーを浴び、夫婦で着飾って芝居を見に行くというようなことはほとんど出来ない状況に置かれています。
今の日本で同じことをしたら、家に戻ったあとに劇場へ着いた時点で、芝居が終わっているでしょう。
その点、たとえばニューヨーカーであれば、それができます。町の中に住むため、終電を気にする必要もありません。
これでは、日本に演劇文化が根付くのは難しいです。演劇人もなかなか育ちませんね。
それはともかく、仕事に追われるだけの人生を送って楽しいのだろうかと思わずにはいられなくなります。
Audibleを無料で利用できるのは残り半月となりました。このあとはしばらく、昔に聴いて楽しかった、小説家や文化人の講演会を聴いて楽しむことにしましょうか。
小説がオーディオブックになっているからといって、それが長いものは10時間を超え、気軽に聴く気には私はなれません。
このあたりが、オーディオブックの「問題点」であるかもしれませんね。