本日は、7日付の朝日新聞に掲載された、建築家・安藤忠雄さんへのインタビュー記事に注目してみたいと思います。
これは新年を迎えたのに当たり、各界で活躍する著名人にインタビューし(聞き手:中西豊樹記者)、現代日本が抱える問題点を指摘してもらおうという趣旨に基づくものです。その「中」といいますから、3回シリーズの「2回目」に安藤さんが登場されているわけです。
大見出しは「思考停止 脱しよう」で、小見出しは「個人の責任逃れるな」「教育改革で子供を救え」です。この見出しだけで、本文をご紹介しなくても、だいたいの内容は想像できてしまうかもしれませんね(^_^;
それでも、書かれている内容について見ていこうと思うわけですが、その前に、安藤忠雄さんをご存じない方のために、安藤さんのプロフィールを今回の記事からそのままに抜き出して以下に紹介しておきたいと思います。
建築家。元プロボクサーで、独学で建築を学び、1979年に「住吉の長屋」で日本建築学界賞。1995年に建築界のノーベル賞とされるプリツカー賞を受賞した。打ち放しのコンクリートの多用が特徴で、最近では同潤会青山アパート(「同潤会アパート」)跡地に建設される複合施設を設計。1997年から2003年まで東京大学教授。著書に「建築を語る」「連戦連敗」など。
実をいいまして、私は建築云々については全くわからないわけですが、安藤さんのことは以前から知っておりまして、安藤さんが紹介されるテレビ番組があると必ず見るというほどです。
それではなぜ、それほどまでに建築家・安藤に関心を持っているのかといえば、彼の建築家としての才能・力量に魅了されていることは改めて書くまでもありませんが、それとともに、安藤さんの経歴や考え方に魅力を感じているからです。
その彼の経歴で最も特徴的なのが「元プロボクサー」という点です。
その点については、以前のドキュメンタリー番組の中で安藤さんご自身の口で直接語られる形で聞くことができましたが、高校(確か工業高校)時代からボクシングに打ち込み、高校を卒業後は大学に進学せず、そのままプロボクサーの道に進まれたそうです。
安藤さんの現役時代の戦績がどの程度であったかは知りませんが、安藤さんがプロボクシングの世界で頂点を目指していた時代、彗星のように日本のボクシング界に登場したのがファイティング原田さんだったといいます。
その原田さんのボクシングを目にした安動さんは「原田さんに自分は到底かなわない。自分にはボクシングの才能がない」と悟り、高校時代から一筋に精進してきたボクシングに一切の未練を残さずに区切りをつけます。
この辺りが安藤さんの凄いところで、普通であれば、ここまで自分の才能を客見的に見ることはできず、自分をごまかしてでもプロボクシングの世界にしがみつこうとするのではないでしょうか。
そしてさらに驚かされるのが、次に自分が進むべき道として選んだのが、全くの畑違いの建築の世界であったことです。しかも、ただ単なる憧れとして選んだのではなく、その世界で頂点に上り詰めて見せたことです。本当に驚嘆の一言に尽きます。
以上、私自身の思い入れも含めて安藤さんの人となりを紹介したところで、新年の朝日新聞に掲載された安藤さんからの「提言」に注目してみましょう。
その冒頭で、故司馬遼太郎さんがお書きになった一説を紹介する形で、フランスの詩人ポール・クローデルの言葉を紹介しています。ちなみに、この詩人は、第2次大戦で日本が敗戦に傾いていた時代、駐日大使を務めるなどの経歴を持つ人物だそうです。
私が滅亡するのをどうしても欲しない民族がある。それは日本人だ。これほど興味ある太古からの文明を持っている民族を私は知らない。彼らは貧乏だが、高貴だ。
確かに、昔の日本は経済的には現代と比較にならないほどの貧しさの中にあったに違いありません。しかし、皮肉なことに、経済の成長と反比例するように、日本がかつて西欧諸国から抱かれていた「文化大国」というイメージは崩れていきました。
そして、この、日本文化が衰えた根っこの部分に「日本人の思考停止がある」と安藤さんは指摘されるわけです。
具体的には、第2次大戦後、日本人は「米国型消費文明」に憧れ、1960年代の池田内閣による「所得倍増計画」、1970年代初頭に田中角栄首相が推し進めた「日本列島改造論」など、物質的な豊かさを最優先して求める道を突っ走ってきました。
その結果として、日本人の脳内には「カネさえあれば豊かになれる」という経済万能の考え方が埋め込まれ、それと引き換えのように、これまで日本人の祖先が大切にしてきた精神文化や自然、伝統文化などを犠牲にしてしまったというわけです。
いってみれば、「モノ、モノ、モノ、、、」「カネ、カネ、カネ、、、」の状態で日本人の思考が停止してしまい、自分で物事を考えることをやめてしまっているというのです。
そのことは教育の世界にもそのまま当てはまると安藤さんは指摘されています。以下は、少し長くなりますが、今回のインタビューで重要な部分だと私は判断しましたので、そのまま抜粋させていただくことにします。安藤さんが語る現代教育の問題点です。なお、太字や下線は私の判断で入れています。
高度成長に伴い、一流大学から一流企業へという表面的なエリートコースが確立され、偏差値教育が蔓延った。すべての受験生を共通の尺度で測るセンター試験により、知識詰め込み教育が進み、子供たちの考える力が失われた。結果的に東京に優秀な人材が集まって、地方の体力が低下し、東京を頂点とする官僚集権社会はますます強固になりました。2年前まで東大で学生に建築を教えていました。みんな優秀ではありますが、冷静で情熱が感じられない。なぜなのか。本来、建築家は、社会情勢や環境問題にも敏感に反応しなければなりません。だが、大学は純粋培養の世界。教える側もいかに美しい建築を作るか、自分の器を磨くかに関心を寄せ、社会のことを自分で考えさせる努力を怠ってきたのです。
同じようなことは私もいつも考えていまして、本コーナーでも折に触れて書いてきたつもりです。
また、有識者からの同じような指摘は元日の地方紙にも掲載されていまして、いつか取り上げたいと思いつつ、安藤さんのインタビューを先に回してしまいました。
そこで指摘をされているのは鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ:1922年東京生まれ。15歳で渡米し、ハーバード大学で哲学を学ぶ。戦後、丸山真男らと「思想の科学」を創刊。大衆文化研究など、日常性に根差した独自の哲学を展開する。安保闘争、ベトナム反戦運動でも大きな役割を果たした。著書に「鶴見俊輔集」「鶴見俊輔講談」など多数。近著に小田実との共著「手放せない記憶」がある)さんです。こちらの方は、いずれまた機会を見つけて書いてみたいと思います。
以上、本日は朝日新聞に掲載された安藤さんの「提言」を見てきたわけですが、安藤さんのおっしゃる「思考停止」というのを自分なりに解釈しますと、「世間が善しとする人生のレールを疑うことなく走っているだけでは、真に大切にすべきものは見えてこない」ということになるのではないかと思います。
ま、私は世間で俗にいわれる「レール」の類いは外れまくって生きてきたし、これからも生きていくことになるわけですが(^_^;
ともかくも、年が改まった今の時期、少しは思考回路を活性化させ、「日本文化をよくしよう」という大テーマは別にしても、「自分の現在の生き方はどうなんだろうか?」と疑問符をつけるぐらいのことはするべきでしょう。
それにしても、最高学府と信じられている東大の学生さんに覇気が感じられなかった、という安藤さんの指摘の意味するところは小さくないように思います。結局のところ、東大といったところで、所詮は受験競争というごく狭い範囲での“勝者”でしかない、ということになるのでしょう。