本名で活動した作家でエッセイストに山口瞳(1926~1995)がいます。ご存知でしょうか。
私はこれまで、山口の小説は読んだことがなく、エッセイも、週刊誌に昔書いたものを部分的に読んだことがあるだけです。
山口で思い出すのは、小林桂樹(1923~2010)が演じた映画『江分利満氏の優雅な生活』(1963)を見たことです。
いま改めて、この映画について書かれたネットの事典ウィキペディアで確認すると、山口の原作は、オムニバスで書かれているそうですので、一本の映画にするには、あまり向いていなさそうに思われます。
それぞれの話を、テレビで一話完結の話にして、それを連続で見せるやり方であれば、それはそれで面白そうですが。
それはそうと、山口瞳という本名でありペンネームでもあった名前だけを見ると、女性と勘違いする人も出てきそうです。
山口は男性の作家であり、エッセイストです。
活動していた当時も、女性と勘違いする人はおり、男性読者から、熱烈なラブレターが届いたという話が残っています。
山口に「瞳」と名づけたのは彼の母親です。これはあとで書くことになりますが、彼の家系は、どういうわけか、眼の大きな人が多いそうです。
山口も眼が大きく、生まれたときは体が小さく、痩せていたため、大きな眼が余計に目立ったのでしょう。その眼の印象が強かったからか、母は自分の子供が息子であったにも拘らず、「瞳」と名づけます。
山口は自分の名前について書いています。一言でいえば「斬新奇抜」。使われている漢字と読み方が難しいわけではない。それでありながら、それを男の子の名にしたことで、非常に変わった名前に変えています。
山口自身は、母親のことが好きということもあり、とても気にっているようです。
この山口瞳が、自分の家族、中でも母方の家系について書いた『血族』(1979)という小説があることを知り、読みました。実際に読んでみると、山口の他の小説を読んだことがないのでわかりませんが、小説ではなく、エッセイのような書かれ方をしています。
小説であれば、ひと続きの話が書かれるのが普通です。山口の小説は、『江分利満氏の優雅な生活』がオムニバスであるように、短い章がアトランダムに並べられたような体裁です。
また、自分の家族や血族について書く文章に作り事や嘘がなく、きわめて真実に近いことが書かれている印象です。それでもなお、本作は、小説の分類なのでしょうか。
苗字の山口は父方のものです。父の正雄は、旧制中学の恩師の娘と結婚し、娘がひとりいる身でした。加えて、長男が生まれて間もない頃、だったでしょうか。
その正雄に恋をするのが、山口の母となる静子です。
母方の苗字は珍しく、「羽仏」です。本作ではその苗字に振り仮名が振られておらず、「はふつ」と読むのだと知るまでは、わからないまま読んでいました。
山口は、元は「羽布津」だったのでは、と推測するようなことも書いています。
母の家系は変わっており、兄妹4人がいずれも、途中で改名をしています。静子の兄は、丑太郎から文雄に、妹の「きみ」は君子に、弟の保次郎は義宏に改名しています。
母の静子は、三歳のときに千代から静子になっています。
山口はいつの頃からか、自分の母方の家系に隠された部分があることに、漠然とした恐れのようなものを感じるようになります。
そのことについて、母は何も話してくれません。母は自分が生まれ育った町の話をせず、母の実家があった辺りへは一度も連れて行ってくれることがありませんでした。
隠されれば隠されるほど、知りたくなるのが人間の性(さが)です。その一方で、それを知ることを恐れてもいます。
山口は長い年月、自分の中に封じ込めていた探求心を、母が亡くなり、自分も作家とエッセイストとして知られるようになり、直木賞も受賞し、テレビのコマーシャルに登場するまでになったことで、葛藤に打ち勝った(?)のでしょう。
山口は覚悟を決め、母の実家がある辺りに何度も足を運び、当時を知る人を訪ねて、話を訊くことをします。そのことで、『血族』としてまとめた小説になり、それを底本とする本作を、私はAmazonの電子書籍版で読みました。
はじめから6、7割は、山口家の歴史と家族について、それこそオムニバス形式で、山口が思いつくままに書いている印象です。それが非常に克明に描かれているため、それを頭に入れるのはなかなかに厄介です。
山口の父の正雄は、神奈川県の三浦半島にある横須賀で生まれています。正雄の父は佐賀県出身の職業軍人で、最初の妻と離婚したあと、小田原藩士の娘と結婚し、正雄が生まれています。
正雄は一旗揚げようという気持ちが強く、工場を経営しては、一時的に成功したりします。日本が軍需産業で景気が良くなると、それに乗って生活水準が一挙に上がります。
最盛期の昭和4年には、東京にある戸越銀座を見下ろす高台に大きな邸宅を構え、当時としては珍しい運転手をつけた自家用自動車を持ち、女中を何人も雇い、中軽井沢には6、7000坪ほどの敷地がある別荘を持つ、といった具合です。
しかし、暮らし向きの振幅は非常に大きく、父の工場の需要がなくなると、奈落の底へ落ち、昭和6年は、神奈川の川崎の何もない家に移るようなありさまです。
その年の正月は、卓袱台(ちゃぶだい)がないので、蜜柑箱の上に餅を載せて食べた、と山口は書いています。餅の数も5、6個。蜜柑が2、3個だったそうです。
母の静子が生まれたのも横須賀の街でした。その街のあった辺りを探り、山口は何度も訪れています。ここから先が本作のクライマックスといえましょう。
山口が初めてその辺りを訪問したのは、山口の母の従弟にあたる勇太郎の七回忌があった昭和52年6月です。法事は、母の家の菩提寺である妙栄寺でありました。
その寺が菩提寺だということは、その近くに母の実家があったということです。
母は自分の実家について訊かれると「旅館」をしていた、と死ぬまで山口には話していたそうです。
それはある意味間違いではなかったことになります。
母の兄の丑太郎(文雄)の長男である幹雄が、最近(本書を執筆する頃の「最近」)になって、次のようなことをいったそうです。
うちの先祖は旅館業であり、女郎部屋であり、十手捕縛のヤクザ、つまり二足草鞋(わらじ)でもあったんですね。
いろいろ調べてみて、幹雄がいったことが真実に近いように山口も感じます。
横須賀という街には港があり、その軍港と共に街が発展します。そんな海に出て働く男たちが忙しく出入りする街には、男たちの性の捌け口となる場がどうしても必要になります。
それを果たす「遊郭(ゆうかく)」が、明治21年頃、横須賀の大滝町にできます。今でいえば、京浜急行の横須賀中央駅に近い辺りになるようです。
ところが、その遊郭が、同じ年の暮れには消滅してしまいます。当時の朝日新聞記事で山口が調べてわかりますが、その年の12月3日、大滝洋酒店で出火した火が四方に燃え広がり、そこにあった遊郭が消失してしまったのです。
消失した遊郭のひとつとして、母の実家であった「藤松」もあったのでした。
当時は使用できる空き地が多かったのでしょう。翌年の6月頃には、遊郭を移転する話が決まり、山を切り開いた新開地に、17軒の遊郭が移り、商売を始めます。
遊郭が移転した先は、元は田圃で、「柏木田(かしわきだ)」というところだったそうです。そこから、「柏木田遊郭」と呼ばれるようになったようです。
そこまでわかった山口は、目印とする「鶴久保小学校」の前でタクシーを降り、道路に架かっていた陸橋に上がり、辺りを眺めます。
そのあたりの地図を見ると、今も、おそらくは同じ位置に、陸橋があります。また、この小学校のすぐ南には、山口がこの地を初めて訪れたときに行った妙栄寺もあります。
ちなみに、山口の母の静子は、この小学校ではなく、近くの豊島小学校に通ったということです。
鶴久保小学校では、偶然、ある有名人だった人がこの小学校の卒業生であることに気がつきました。それは、山口百恵(1959~)です。彼女も、本名で芸能活動をしたものと思っています。
山口の母の旧姓は羽仏で、山口ではありませんが、結婚して山口になる女性が成長するまで過ごした街と、山口百恵が育った街が同じで、しかも、山口姓である偶然にいささか驚きました。
ちなみに、山口百恵が通った中学校も近くにありますが、「不入斗」という校名です。知らない人には読みにくいですが、「いりやまず」と読むことを知りました。
母の実家である藤松という遊郭は大きな建物で、中で凧あげができるほどだった、ということです。
母親の静子は実家の家業を嫌い、そこを飛び出すことを考えていたのかもしれません。家業の藤松は傾き、消滅しました。
母の兄妹は皆、異常なほど器量が良く、妹の君子は、6歳のときに、仙台の大変な資産家に養女に出されます。そのあと、その美貌に惚れ込まれたことで、鎌倉の由比ヶ浜にあるKという大きな旅館に嫁いでいます。
本作を通し、山口は自分の母親を悪く書くことが一度もありません。母を愛していたのでしょう。母の素性がわかったあとも、その気持ちに変わりがありません。むしろ、知ったあとのほうが、その想いが強まったように感じられます。
ある意味では、山口の母である静子の人生は、自分の出自に揺れ動かされ続けたものであった(?)のかもしれません。