ミラーレス一眼カメラ(ミラーレス)で動画を撮るようになってから起こったブームに、シネマティックやフィルムルックと呼ばれる、デジタルカメラで撮影しながら、フィルムのムービーカメラで撮影したように見える動画表現があります。
今は商業映画もデジタルで制作されることが多くなり、フィルムで制作されることの方が稀となってきた(?)でしょうか。
ですから、愛好家のブームとは別に、商業ベースでも、シネマティックやフィルムルックに類する映像が求められているといえましょう。
私は見たことがないですが、『ジョーカー』(2019)という作品があり、それが暗部を青緑色にしたような色作りで、それに影響を受けたカラーグレーディングがその後流行っている面があります。
個人的には、ごく普通に見える色相で、全体に淡い感じではなく、暗部は暗部でしっかり沈んでいるような画作りが好きです。このあたりの好みは、私が最も敬愛する17世紀のオランダの画家、レンブラント(1606~1669)の影響ともいえましょうか。
私も昔から映像が好きなこともあって、ミラーレスでLog撮影した動画を、動画編集ソフトのDaVinci Resolve Studioのカラー編集機能を使い、それらしきことを素人の真似ごととして楽しんだりしています。
今は、[S-Log2]ガンマではなく、基本的には、より扱いやすい[Cine1]ガンマを使って撮影し、DaVinciのカラーページで、最小限のカラーコレクションをして楽しんでいます。
その参考にするというより、昔から私はNHKのドキュメンタリー番組を見るのが好きで、今は、昔に放送された「新日本紀行」がデジタル修復された番組を、放送があるたびに録画して見ています。
この番組が製作された時代にはまだビデオカメラで撮影する環境がなく、16ミリフィルムを使うムービーカメラで撮影されています。
デジタルで修復されていますので、当時放送されたままの映像ではないかもしれませんが、とても綺麗な色で目を楽しませてくれます。
それらを見ていて感じるのは、ことさらに、フィルムで撮影したことが強調されていないことです。
考えて見れば当たり前のことです。フィルムで撮影するのですから、そのままでフィルムルックの映像です。
私などもそうですが、デジタルの動画でフィルムルックを模倣しようとすると、不必要な加工をしがちです。しかし、当時のフィルム作品を見ると、当たり前に、対象物の色をありのままの色で再現しています。
それが、「新日本紀行」のようなドキュメンタリー番組であれば、演出は必要なく、あるものをあるように撮っているだけです。
ですから、デジタル動画を使ったフィルムルック表現をするのだといって、「それらしさ」を演出するのは、正しくないのでは、と思ったりします。
ただ、ビデオカメラとフィルムの映像は明らかに違うので、より、フィルムの映像に近づけたい気持ちがあるのは変わりません。
昨年の12月3日に放送された「新日本紀行」を見返してみました。その日の放送では、「南部潜水夫 岩手県種市町」が放送され、興味深く見ました。
これが作られて放送されたのは昭和49(1974)年です。
冨田勲(1932~2016)作曲の有名なテーマ音楽が流れるタイトルバックは、荒れた海に浮かぶ一隻の漁船です。それが、望遠レンズで画面に大きく映っています。手前の波が盛り上がると、漁船の姿が波に隠れ、波が引くと、また漁船が見えます。
この船は、深海に潜ってホヤ採りをしている潜水夫に、命綱の酸素を送り込んでいることが、番組を見ることでわかりません。ファーストシーンだけでは、普通の漁をする漁船としか思わないでしょう。
舞台は岩手県の最北端で青森県との県境にある種市町です(現在は、洋野町種市)。三陸海岸に面した町は、半農半漁で成り立っています。
この地方では、昔から、素潜りでアワビを採る漁法があるようです。裸の男たちが、褌を締め、水中眼鏡をつけて、海へ潜っていきます。水中の岩などについているアワビを剥がし、網に入れて水上に上がってくることを繰り返します。
潜っている時間は、自分の息が保(も)つ間だけです。漁期は11月から2月いっぱいまでの冬です。この時期のアワビが一番おいしいといわれています。
この時期、水温は10度以上にはならないと番組で語られていました。
町では、アワビの乱獲を防ぐため、素潜り以外の漁は禁止しているということでした。
このような伝統を持つ町がある三陸海岸の沖合で、明治30(1897)年、一艘の貨物船が座礁することが起きました。船を救助するため、当時、潜水技術の中心にあった千葉県から数名の潜水夫が来て救助にあたりました。
その救助に協力したのが、種市で素潜り漁をする男たちでした。おそらくは、そのとき初めて潜水夫というものを見た(?)でしょう。そんな男たちの中から、自分も潜水夫になりたいという者が現れるようになり、南部潜水夫が誕生することになります。
海に潜ると聞けば、酸素ボンベを背中に背負った姿が思い浮かぶかもしれません。しかし、潜水夫は、ボンベを背負いません。
海へ深く潜るほど、水圧が高くなります。その水圧から体を守るため、ゴムの風船のような構造の服を着て、頭には頑丈そうなヘルメットをかぶり、水が浸入しないように密閉します。
ヘルメットには、海上に停泊する漁船からコンプレッサーで送られる酸素のホースがついています。このような仕掛けになっているため、酸素ボンベに頼るスクーバダイビングと違い、何時間でも海に潜って作業をすることができるのです。
番組では、潜水漁で5000時間は海に潜ったという、ホヤ採り30年の岩谷重夫さんという潜水夫が紹介されています。
岩谷さんが取材者に、冬の海の中は冷たくはないかと訊かれ、寒くないと答えています。水の中にいるほうが、体が自由に動かせる、というようなことも話しています。
町民の強い要望で、昭和27(1952)年に、町に県立種市高校ができ、高校の水中土木科では、全国で唯一の潜水技術を教えるようになります。今は、同じ科目を海洋開発科で教えているようです。
番組が放送された昭和49年当時、同科で40人の生徒が学んでいますが、その中に、岩谷さんの次男がいました。
次男の母親は、危険が伴う潜水夫の道へ進むのは反対だったそうですが、本人の意思を尊重したようです。
番組が作られるまでの70年間で、70人を超える潜水夫が死亡したそうです。原因は、酸素を送るホースが切断したり、船に積んでいるコンプレッサーの故障といったところが主なところです。
死なないまでも、潜水夫を恐れさせるのが「潜水病」です。ネットで「潜水病」を引いてみましたが、ウィキペディアにも載っていませんね。
番組で語られたままにいえば、海深くに長い時間潜り、そのあと海上に上がることを繰り返すことが、体に悪影響を与えるそうです。気圧の急激な変化が体にはよくないからです。
番組が作られた当時も、町で潜水夫をして来た人の10人以上が、仕事のできない体になったりしている、と伝えていました。
潜水夫は高給をとれる仕事ではありますが、危険とは背中合わせの一面は拭えない印象です。
番組は、父の指導で、岩谷さんの次男が、初めて海に潜る試みをする様子で終わります。
初めて海に潜る日が近づいたある日、父の教えを次男が真剣な表情で聴くのが印象的です。
次男は、母が編んでくれた厚いセーターを着て、生まれて初めて、海の中へ潜っていきます。父は息子に向かって、「怖いのはわかる。だけど、危険だから、泡を食うようなことにだけはならないようにな」といい聞かせます。
潜水夫は、船の上にいる人と「海中電話」で会話を交わせます。海に潜った次男は、その電話で父に、「海の中は思っていた以上に美しい。潜水夫になって本当に良かった」と伝えます。
番組のカメラは、水中でも撮影しています。NHKのカメラマンは、酸素ボンベを背負っての撮影だったでしょうか。
海の色、空の色、水の中の色がフィルム映像に残っていますが、誇張された色ではなく、あるがままの色に見え、美しかったです。
昭和49年に放送された番組のあと、今の潜水夫と町の様子が描かれています。それが撮影されたのは、2021年10月です。
岩谷さんの次男は高校を出たあと、45年間、潜水夫として仕事を続けてきたそうです。20代の頃は、タイの沖合油田で潜水作業をしたとのことです。
年に一度、母校を訪れ、後進の指導にもあたっています。
番組で紹介された岩谷さん自身が父の仕事に憧れて潜水夫の道を歩んでいます。その岩谷さんの次男が潜水夫の仕事に就いています。親子代々の仕事が、種市には残っており、羨ましい気持ちにさせてくれます。