人間は、考えている以上に残酷な生き物です。人が集まるところでは、いじめは起きる、と考えておけば間違いないです。
昨日の朝日新聞に「『NO暴力』映画界を変える出発点」の見出しがついた記事が載りました。
これまで口をつぐんできた出演者たちが、自分たちが受けた性的被害を声に出して訴えることが増えています。これらの告発から4カ月以上経って、ようやく、日本映画監督協会が、「いかなる暴力も許さない環境作りを目指す」という声明を出し、今年の6月に同協会の理事に就任した元木克英氏(1963~)にインタビューし、それを伝えています。
「映画界を変える出発点」とありますが、人が集まるのはそこら中に無数にあり、冒頭で書いたように、人が集まれば必ず、いじめのようなことが起きるわけですから、それを変える意気込みであれば、世の中のそれらすべてを変えるぐらいの覚悟を持つ必要があります。
とはいってみたものの、この先も、同様の問題がきれいさっぱりなくなることはないだろう、と思います。
これを報じる朝日新聞社も、人が集まって仕事をしています。ですから、必ずや、いじめのようなことはあるはずです。男の上司が、部下の女性社員に、性的ないじめをしている人も少なくない(?)と思われます。
鶴太郎は、ビートたけし(1947~)のバラエティ番組に出て、いじめられキャラとして人気になったと聞きます。個人的にはその種の番組は見ませんので、当時のことは知りません。
鶴太郎があとになって、自分の人生を振り返る番組に出演し、自分の考えを述べています。
その話によれば、あるバラエティ番組の収録で、鍋で煮えたぎっているおでんの具を、鶴太郎の口の中にれ、熱さに悶える鶴太郎を見て、ビートたけしらが笑い転げたそうです。
茶の間でその番組を見る視聴者も、鶴太郎のことを見て笑っていたかもしれません。
当人は、自分の仕事に疑問を持ち、バラエティ番組に出ることをやめた、と取材された番組で話しています。
このように、社会のいたるところでいじめが起きていますが、中でもそれが起きやすい場所があります。それは、いわゆる「体育会系」といわれるところです。
ビートたけし自身が、自分の軍団を作り、自分に従わせているのですから、極めて体育会系の体質を持っています。
社会でいえば、自衛隊や消防署、警察、学校の運動部などは、表に出てこないいじめや性的嫌がらせが蔓延っていると見て、間違いないです。
同性への嫌がらせで、自殺をする者もいるでしょう。
ネットの掲示板「2ちゃんねる」で私が気がついたスレッドを紹介することをしていた頃、サラリーマンの世界のいじめを取り上げたスレッドがあり、本サイトで紹介してことがあります。
ある会社の営業部で起こったことを、内情を知る者が書いた内容が記憶に残っています。
その部の上司が、ある部下の営業成績に不満を持ち、その男性社員に、「裸になれ」と命令したそうです。事務室には社員が何人も残っており、女性社員の姿もありました。
上司に逆らえない社員は、命令されるままに裸になり、そのあと、デスクの上に上がり、踊るようにいわれたそうです。こんなことをさせられた男性は、何もかもが嫌になったでしょう。それを理由に、電車に飛び込んでも不思議ではありません。
人身事故の報道を見るたび、もしかしたら、そんな風にして人生を捨ててしまったのでは、と考えることがあります。
他人に裸になれと命じられる前に、自ら裸になりたがる人もいます。
実は、かつての映画界にも、その行為が有名だった人がいます。多くの名作で撮影を担当した中井朝一(1901~1988)という撮影監督です。中井氏について書かれたネットの事典ウィキペディアから、「人物・エピソード」の項目に目を通して見てください。
そこには、次のように書かれています。
黒澤明監督の「黒澤組」では、黒澤監督の屋敷でスタッフキャスト全員が集まってよく乱痴気騒ぎの宴会が開かれた。この宴会で決まって出るのが中井の裸踊りだった。中井は普段は非常におとなしいが、酒が入って言って時間がたつと、いきなり「アラエッサッサー」と叫んで全裸になる奇癖があった。それぞれ同行した夫人たちは面白がるが、中井夫人だけは黙って下を向いていたという。
誰に命じられたわけでもなく、当人が勝手に裸になるのだから、咎められない、という人もいるかもしれません。
しかし、私がその場にいたら、そんなものは見たくないです。不快です。見たくない人に見たくないものを見せる行為は、性的な嫌がらせです。
その場に、新聞やテレビの記者がいて、それを目撃した場合、どのように扱うでしょうか。
「同行した夫人たちは面白がる」とありますから、女性記者であれば、見て喜ぶ人もいるかもしれません(?)。
しかし、行為自体の本質を考え、問題と考えれば、記事にして世に問うべきです。それが「世界のクロサワ」だからと遠慮をしていたのでは、映画界を変える出発点にもならないでしょう。
おそらくは、中井氏の裸踊りは、その筋では有名な話だったはずで、当時の記者で知る者はいたはずです。しかし、ウィキペディアの記述を読むまで、私は知りませんでした。一度も記事になっていなかった証拠です。
映画界というのは、一般社会とは少し違い、おかしな人間が集まって仕事をするのだから、多少のことは大目にみよう、という考えはありませんでしたか?
「多少のこと」を重荷に感じ、人知れず命を絶った女性がいたかもしれません。皆の前で裸踊りをさせられて命を絶つ男性社員がいるかもしれないように。
ある時期まで、その道の権威とされていた人がいます。広河隆一(1943~)という人です。
広河氏はジャーナリストとして尊敬され、朝日新聞やNHKが広河氏を重用し、氏の意見が必要になると、彼のために紙面を割き、番組に登場させていました。
そんな広河氏でしたが、裏では長年にわたり、近くにいる女性スタッフを自分の性欲のはけ口に使っていたことが週刊誌の報道で明らかにされました。
女性がその世界で仕事を続けるには、権威を持つ広河氏に逆らうことはできず、性の道具にされることを断れない事情があったようです。
ウィキペディアにある記述によれば、次のような被害になるそうです。
- 性交の強要:3人
- 性的な身体的接触:2人
- 裸の写真の撮影:4人
- 言葉によるセクシャルハラスメント(性的関係に誘うなど):7人
- 環境型ハラスメント(AVを社員が見える場所に置く):1人
広河氏が持つ性的な問題は、関係のある人ならもしかしたら知っていたかもしれません。しかし、被害に遭った人が告発するまで、表沙汰にされず、氏は権威とされていました。
この問題が週刊誌で報じられたのは2018年12月ですが、それを受けて、それまで広河氏を権威に祭り上げていた朝日新聞とNHKが、氏の扱いを今後どうするか、明確な声明は見聞きした覚えがありません。
2021年夏に行われた東京五輪の公式記録映画を監督した河瀨直美氏(1969~)にも醜聞が絶えません。
河瀨氏は気性が激しい人のようで、思い通りにならないと、女優を徹底的に無視したり、スタッフの腹を蹴ったり、顔面を拳で殴ったりすることがあり、それが一度や二度ではないようです。
五輪の大会組織委員会は、問題発言で森喜朗氏(1937~)が辞めるまでは、森氏が仕切る組織でした。森氏といえば、自民党清和会出身で、今になって問題にされている統一教会人脈に連なるひとりです。
その組織から大会の公式記録映画を撮るように命じられ、河瀨氏は天狗になってしまった部分があった(?)かもしれません。
統一教会=清和会=故安倍晋三(1954~2022)人脈に連なる記録映画の監督を任された河瀨氏ですから、主要マスメディアは、河瀨氏に靡(なび)きます。
問題が発覚するまで、朝日やNHKが広瀬隆一氏を神の如く扱ったように。
問題が温存され、被害者が人知れず自らの命を絶っている期間、問題から目を逸らし、問題の張本人を権威に祭り上げていたマスメディアが、問題発覚後は手のひらを返し、「問題のある行為だ」といってみても、説得力がありません。
今の統一教会と政治家の問題にしても、それを知る人は、昔から問題にしてきました。これも主要マスメディアは問題視せず、安倍氏を銃殺するまでに敵意を持つ者があるほど、教会に家族のひとりが金をむしり取られ、被害を訴えていた人たちがいたのに、問題として、取り上げることはありませんでした。
性的な被害を受けた人を無視するのと通じる話です。
「いかなる暴力も許さない」と声明をひとつだけだけで、映画界から性的暴力がなくなるわけがありません。
これからもそれらがなくならないとしても、被害を受けた人が声を挙げやすい環境を作ることはできます。
どんな問題に対しても、誰もが、誰にも気兼ねせずに訴え、そのたびにマスメディアが取り上げて問題にすれば、少しずつ、問題は大きくならない方向へ向かうかもしれません。
統一教会と政治家の問題についても、被害を受けた人や受けている人の声を丁寧に吸い上げ、報道することを続ければ、教会に対する人々の関心を薄れさせない効果を生みます。
統一教会が問題のあるカルト宗教である以上、それと政治家が関係を持つようなことは許されません。
暴力団と関係を持つ政治家がいても、今後とも暴力団とは良好な関係を保つ、と述べる政治家はいないでしょう。国民はそれを許しません。
人はそれぞれに価値観を持ちます。自分の価値観に合わないことを強要されたら、断ることを許す社会であるべきです。
有名監督が催す集まりに参加させられ、そこで、見たくもない男の裸踊りを見せられそうになったら、「そんなものは見たくない」といえるのが健全なのではありませんか。
裸踊りを見るのを楽しみに参加する女性がいれば、どうぞお楽しみください。私の価値観とは違いますが、それがその人の価値観であれば、それを尊重します。
裸にされるのを辱めに感じる人がいて、自分から進んで裸を他人に見せたがる人がいます。
それぞれの人の価値観を尊重しつつ、その人の価値観が他者の価値観を損なうのであれば、損なうと感じた人の価値観を認めるのが、この種の問題の解決につながるでしょう。