事件や事故が起こり、それがマスメディアに取り上げられるようなものであると、現場に献花台というものがしつらえられたりします。
このたびの安倍晋三元首相(1954~2022)銃殺現場にも献花台がしつらえられ、花を手向ける人が行列を作っています。
どんなに惨い死に方をされたのであっても、献花台で故人をしのぶのは意味がない、と私は考えます。これは今回の場合そう考えるというわけではなく、これまでに起きた事件事故の現場にしつらえられた献花台すべてに同じような考えを持っています。
私は一応は仏教徒(真言宗)ですが、宗教には関心を持ちません。人間が死んだあとに、仏教徒であれば浄土へいくという教えも、私には受け入れがたいです。
一度死んだ人が生き返り、死後の世界について話してくれるのならわかりますが、これまでに、そんな話をしてくれた人はひとりもいません。
世界にある宗教は、生きている人間が想像したことです。
それにビジネスチャンスを得ようとする人が必ずおり、今回の事件の基になった統一教会がその代表例といえましょう。
ひろさちや氏(1936~2022)が書かれた『終活なんておやめなさい』(2014)という本が手元にありますので、適当に中を確認しました。
その中に、「故人は墓の下になどいるわけがない」と書かれています。それだから、大金を投じて、墓を作る必要もない、という話に発展します。
私もほぼ同じ考えです。
それに続けて、ひろ氏は、仏教の教えから、死んだ人は浄土へ行くと書いています。先ほども書きましたように、私は仏教にも熱心な関心がないため、浄土の存在も信じません。
死んだらそれで終わりなのでは、と考えるだけです。
肉体が滅んだあとは霊魂が残り、それだから、事件事故現場に献花台をしつらえ、霊を弔うと考えるのだと思いますが、私は霊の存在も信じませんから、献花台に花を手向けるのは、生きている人間の自己満足でしかないと考えます。
献花台の前で手を合わせる人は、自分の行為を美化しているだけのように見えます。何もないところで手を合わせても意味はないです。
それでも故人を弔いたければ、どこにいても、故人を思えばいいでしょう。
仏教における浄土がどのように定義されているのか私は知りませんが、それは特定の場所にあるわけではなく、結局のところ、生きている人の心の中にあるのではないでしょうか。
であれば、その人が自分の心に手を合わせるだけで、故人は霊は弔えるはずです。
ひろ氏の別の本に書かれていたのだと思いますが、亡くなった人のことは、はやく忘れてあげるのがいい、とも書かれていたのを思い出します。
そうしなければ、死んだ人がなかなか成仏できないから、ということでした。
誰かを弔いたくなったら、目を閉じて、その人のことを思い出すだけで十分です。それが過ぎると、成仏できないので、できれば、はやく忘れてあげることです。