今月7日夜、NHK BSプレミアムで放送された番組「ダークサイドミステリー」を録画して残しました。
この番組は、以前はよく見ていましたが、今は見ることが少ないです。しかし、7日の放送は「エドガー・アラン・ポー 恐怖と幻想の案内人」とあったので、多少期待して録画しました。
それを昨日になって見ました。
しかし、エドガー・アラン・ポー(1809~1849)が34歳の時に書いたという短編小説『告げ口心臓』(1843)を紹介する場面を見るうち、つまらなく感じ、再生を止めました。
見る人によっては、今回の放送を最後まで面白く見たかもしれません。しかし私は、始まって、おそらく10分前後で、見ていられなくなりました。
このあと、番組の続きは見ず、レコーダーのハードディスクドライブから削除してしまうでしょう。
この番組に限らず、毎週連続して放送する番組は、多くが、フォーマットに則った番組構成を採用しています。
多くの番組に見られるパターンとしては、次のようなものです。
- 番組タイトル映像の使いまわし
- 番組紹介のナレーション
- 番組のテーマ音楽
- その回の見どころを短いカットで紹介
- エピソードを三つぐらい描く
- 本番組の場合は、簡易アニメを使用
- さもありなんといったナレーション、効果音、音楽
- 舞台回し役の栗山千明をエピソードの合間に登場させる
- まとめのような映像と音声解説
- エンドタイトル
本番組は久しぶりに、最初の10分程度見ただけですので、他の回のことはわかりませんが、どのようなものを取り上げても、似たようなフォーマットで紹介している(?)でしょう。
今回の番組を見ていて、思わずレコーダーの再生を止めたのは、ポーの短編小説『告げ口心臓』を紹介する簡易アニメの出来に感心できなかったからです。
私は本作を読んだことはありません。番組のナレーションによれば、数分で読み終わる短編小説だそうです。
Amazonの電子書籍・Kindleでポーの全集が格安に読めるなら、本作を読んでみることにします。
話の筋は、単純といえば単純です。
「私」である青年が、嫌悪するどころか好ましく思っていた老人を殺し、自分の家の床下に隠します。老人の断末魔の悲鳴を聞いた隣人が警察に通報したのか、「私」の家に警官がやって来ます。
「私」の家に入った警官は、事件が起きた様子がなかったため、家から出ようとします。すると、「私」は耐えきれなくなり、「私」が老人を殺し、床下に隠したことを告白する_といったような筋のようです。
嫌っていなかった老人を殺した理由が「私」にもわかりません。ひとつだけ理由を上げれば、老人の鷲のような青い目が青年には恐怖で、それを永遠に葬りたい、ということのようです。
この種の番組を、たとえば米国で作ったらどんな体裁になるでしょう。日本の場合は、見ている人にわかりやすく作るのが一般的です
日本の鉄道の駅のホームでは、電車が入場する直前には必ず、ホームの端に引かれた白や黄色の線の内側に下がってください、と放送されます。
同じような放送が、海外の駅ではされないと聞きます。
日本の天気予報では、暑い日には熱中症に注意するよういい、雨が降りそうな日には、念のために雨具をお持ちくださいといい、気温の上下が続けば、体調を崩さないようアナウンスします。
同じような「注意」が海外ではされていないように考えます。
日本では、大人に対しても、小さな子供に対するような対応をします。
日本の番組作りも、この日本独自の慣行に沿っているといえましょう。
ポーが読者にわかりやすく本作を書いたわけではないでしょう。また、読者がどのように受け取っても、作者にはあずかり知らないところです。
自分はこう書いた。あとは、どのように受け取ってもらっても結構。
これが海外では、作者と読者の一般的な関係といえましょうか。
しかし、日本では、電車が入ってくるときは、大人にも「線の内側まで下がってお待ちください」といっておかないと、心配で仕方がない心理が働きます。
番組でポーの短編を取り上げる時も、わからないままでは視聴者に申し訳ない。誰が見てもわかるように作ろう。こんな意識が働くのでしょう。
今回の番組でも、手間をかけて、場面を簡易アニメにしました。
しかし、老人の青い目を、水色の色紙をペタッと貼ったような単色にしたのは感心しませんね。これが画面に映った時、私は見る気を失いました。
小説の読者は、「青い目」と書かれた文字から、個々人が様々な色相、明度、彩度の「青」を想像します。10人の読者がいたら、「青」は10通りになります。
「鷲の眼のような青」と書かれているらしいので、鷲の目がどんな感じか、ネットで検索してみました。
想像していたよりも丸い目で、白目と黒目がハッキリしています。ポーが青い目と書いているのは、白目の部分が青味がかっているということでしょうか。
どちらにしても、番組で流れた簡易アニメの老人のように、黒目の部分が水色の色紙をペタッと貼った感じではなさそうです。
青年である「私」が、顔の下から懐中電灯をあてたように、とても嫌な人相に表現されています。
私がもしもこの話を簡易アニメにするとすれば、「私」の姿は出さないでしょう。一人称で書かれた作品ですから、あくまでも視点は「私」に置き、「私」が見るものだけをアニメにするはずです。
アニメでなく、実写で表現するとしても、同じような映像にすることで、より、原作の感覚が伝わるように考えます。
ポーが本作で描きたかったのは、青年である「私」の内面に沸き起こる恐怖です。犯行そのものではないように考えます。
松本清張(1909~1992)は殺人事件を題材にしますが、殺人場面や死体を描くことはしません。清張の作品に馴染んでいない人は意外に思われるかもしれません。清張の関心は、犯罪者の心理や背景にあるのです。
清張作品が映像化されると、原作にはない犯行場面が必ずといっていいほど登場します。わかりやすく描かれることで、原作が持つ意味合いが薄れてしまいます。
ポーの短編『告げ口心臓』をわざわざ映像化する必要ななかったでしょう。文字で書かれた作品に接した個々人が、それぞれのイメージで作品世界を味わえばよいです。
私はNHKの番組以外ほぼ見ないのでNHKの番組作りが念頭にあります。NHKの番組は、どんなものを取り扱っても、わかりやすく作っています。
純粋に映像作品を制作することを考えれば、見ている人が「?」という作品にしてもかまわないと思います。
海外の鉄道の駅で、「電車が入ってきますので、黄色い線の内側に下がってお待ちください」と小さな子供向けのアナウンスをしないように、日本でもそろそろ、成熟した大人の対応を心掛けるようにしませんか。
手取り足取りするような番組を見せられると、鬱陶しくして仕方がないです。そろそろ、突き放されたような番組に接してみたいです。
もっとも、テレビ番組というものが、手取り足取りするようなメディアなのかもしれませんけれど。