荒唐無稽な冒険活劇もいいけれど

村上春樹1949~)の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』19941995)は3部構成になっています。1部ずつ1冊の本ですから、全部読むには3冊を購入しなければなりません。

図書館を利用する人で、3冊をすぐ借りられるのであれば、買わずに済ますこともできます。その方が、絶対に賢いですね。

賢くない私は、一応、手元に残しておきたいたちでもありますので、読みたい本があれば、購入することにしているだけのことです。

私は村上作品に特別詳しいわけではありません。それでもこれまで、短編小説はほぼすべて読んでいるはずです。紀行文や随筆集もあらかた読みました。

長編小説でまだ読んでいないのは、発表順に次の作品です。

まだ読んだことがなかった中の『ねじまき鳥クロニクル』の第1部を、AmazonのオーディオブックのAudible(オーディブル)を利用し、耳で楽しんだことは本コーナーで書きました。

Audibleを利用するには、月額1,700円かかります。しかも、利用できるのは、オーディオブック化された作品に限られます。

私は、追加料金なしで、該当するAudible作品を好きなだけ楽しめる権利を得、その機会に、Audible化されたばかりの村上作品に接しました。

【特別動画公開】村上春樹さんの名作「ねじまき鳥クロニクル 第1部」配信開始!藤木直人さんインタビュー

私はそのサービスを2カ月間追加料金なしで利用できるものと考えていましたが、1カ月間で終了してしまいました。

作品のAudible化は順次行われており、現時点では、村上の『ねじまき鳥クロニクル』は第2部までを楽しむことができます。

本日の豆ノート
第2部は、6月1日から利用できるようになりました。第3部は7月15日から利用できる予定のようです。

Audibleの有料会員になれば、第2部も追加料金なしで楽しめる(?)のかもしれませんが、既に書いたように、会員資格を1カ月で失効してしまったため、楽しむのであれば、1,500円が必要になります。

そんなわけで、3部まである話の1部だけしか聴けなかったため、どうしても、その先が気になります。そこで、本来の表現形態である文字によって著された『ねじまき鳥クロニクル』全3冊を電子書籍のKindle版で購入し、読みました。

第1部は耳から楽しみましたので、電子書籍は第2部と第3部を読みました。

これは私の勝手な感想ですが、本作を私の印象でキャッチコピーにすれば、「荒唐無稽な冒険活劇」です。

村上の作品の多くがそうであるように、ところどころ三人称で書かれる部分もありますが、基本的には一人称で書かれています。そして、物語の視点となる「僕」は、本作を書く村上自身に限りなく近い分身である、とどうしても考えないわけにはいきません。

「僕」である岡田亨(以下、「僕」のことは「亨」と書きます)は30歳で、妻の久美子とふたりで、東京・世田谷にある一戸建住宅に暮らしている、という設定です。

亨は、弁護士資格を持たずに、法律事務所で働いていました。その仕事を辞め、目下のところは無職です。次の職探しもしていません。

法律事務所で働いていたとき、ある病院の待合室で出会った久美子と、とんとん拍子で結婚し、6年間、波風ひとつ立たない幸せな結婚生活を送った、と亨は考えています。

久美子は小さな出版社で働いています。妻の収入と、亨の親族の遺産がいくぶんあるため、亨がすぐに働かなくても、当分はやっていけそうな状況にあります。

今住んでいる家が、叔父から安く借りられたことはふたりにとって好都合でした。

こんなわけで、このまま何も起きなければ、頭を悩ませるようなこともなく、毎日の生活を送れそうだった、と亨は久美子がいなくなったあと回想します。

亨と久美子に子供はいません。初めから、ふたりは子供ができないよう、注意をしていました。それが一度だけ、久美子が妊娠することが過去にありました。その時は、久美子の希望で、人工妊娠中絶を選びました。

もしかしたらですが、そのときに授かった子宝は、亨以外の男性とによって(?)かもしれません。

何の心配事もなさそうなふたりでしたが、本作が幕を開ける少し前に、大切に飼っていた猫が姿を消し、それが、唯一最大の心配事となっています。

そうこうするうち、いつものように、朝、久美子が出勤のため家を出たあと、久美子が家に戻って来なくなります。家で久美子の帰りを待つ亨は、勤務先に電話をしますが、出勤していないことがわかるだけで、久美子がどこに行ってしまったのかわかりません。

ここから先は、お決まりの「春樹ワールド」炸裂で、不死身の「僕」である亨が、どんな困難に遭ってもひるまず、妻である久美子を自分の手に取り戻すための「死闘」が展開され、読者はそれに付き合わされることになります。

次々に登場する奇妙奇天烈な人、現実と夢の境が消えたような場面、一見関係なさそうな話が飛び出しては消える、そして、村上お得意の性的な表現。

まとまりがないといえば、まとまりがない、ような気がしないでもありません。

読み終えて私に残ったのは、深い感動、ではなく、徒労に似た疲労感でした。

Amazonの個人レビューは、文章と共に、星の数で自分なりの評価を表すことができます。星5つが最高で、1つが最低です。

本作をエンタテインメント作品とすれば、星3つ、あるいは多少甘く星4つにしてもいいかもしれません。しかし、文学作品、それも、ノーベル文学賞の対象となりそうな純文学的作品とするなら、どうでしょう、私は星が2つ、辛くすれば星1つでも良さそうに感じました。

私がどうしても引っかかるのは、村上が、一人称で書く自身の分身である亨を、どこまでも肯定的に描いてしまっていることです。これでは純文学にはなりません。

小説家が一人称で、自分の分身を一人称で表すときは、自分自身への疑いがどうしても必要です。

ある場面で、一人称の「私」なり「僕」なりが、ある言葉を誰かに投げかけたとしましょう。その時は正しいと思って口から出た言葉が、あとになってよくよく考えてみると、もしかして正しくはなかったかも、と不安になったりすることで、物語は深みを増していくものです。

小説という狭い世界を離れても、ひとりの人間の中には、世間的に善とされる部分と悪とされる部分が混在しているものです。

世間的に問題とされる事件が起きると、新聞やテレビはそれを取り上げ、犯人を徹底的に憎み、被害者をどこまでも庇います。

しかし、俯瞰して見れば、凶悪犯人の中にも善の部分はあるのであり、「何の罪もない市民」される人の中にも、悪は必ずや存在するものです。

世の中は、善人と悪人の2種類に綺麗に色分けされているわけではありません。誰もが善人で、誰もが悪人と考えるのが真っ当な大人というものです。

それを踏まえた上で、作り物の話も紡がれます。

現に、本作の亨も、大学2年のとき、付き合っていた女性を妊娠させた過去があったことが書かれています。その時は、女性が堕胎するといい、亨は彼女に付き合って病院へ行ったことが思い出として書かれています。

妊娠した彼女が見つけてきたのかどうか忘れましたが、中絶手術を受けるため、千葉県内の初めて聞いたような小さな町にある産婦人科医院へ行ったとあります。

最寄り駅は、駅前が田んぼだったと書かれています。

本作が描かれている時代は1984年から1986年で、30歳の亨が20歳のときの話になりますから、1970年代中頃のことです。

何でもない振りをして堕胎したその時の彼女も、亨にはわからない痛みを強く残したかもしれません。

しかし、亨はそのことを少しも痛みに感じていません。すぐに忘れてしまったのでしょう。足を踏んだ人はすぐに忘れても、踏まれた人はいつまでも憶えているものです。

このあたりにも、亨の都合のよさが感じられます。

ついでに書いてしまえば、現実の村上にも似たようなことがあった(?)のではないでしょうか。その時のことが、村上の長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』2013)の主人公で、高校時代の仲間から疎外される主人公の「多崎つくる」に反映されているのでは、といった見方があります。

ともかくも、村上が描く『ねじまき鳥クロニクル』の主人公である亨には、肯定的な描き方だけがされています。これが私には、どうしても受け入れられなかったのです。

常識的に考えて、ふたりきりで6年間結婚生活を続けたあと、ある日突然、妻が家を出て戻って来なくなれば、夫婦の間に何らかの問題があるとして差し支えないでしょう。

普通の感覚が本作の亨にもあれば、自分でも気がつかないうちに、妻の久美子に何か間違ったことをしてしまい、それが原因で家を出て行ったのかもしれない、と考えたりするでしょう。

ところが、村上が描く亨はその疑いを一度も持ちません。妻の久美子は自分を愛して信頼していたに違いないし、自分は久美子を誰よりも愛して信頼していた。

そんな自分と久美子が離ればなれになるからには、ふたりのほかの何かに原因があるに決まっている。その「謎」を解くのが自分の使命だ。

そのためなら、自宅近くにある空き家の水の出ない井戸にもぐることもいとわない。夢と現実を混同してもいい。野球のバットで誰か知らない人を叩きのめしても許される。必要とあれば、壁をすり抜けることだってする。

自分を一切疑わず、仇敵を外に求め、誰が止めても前進するのみ。しかも、死の危険に遭遇しても、不思議と死なない。

これはもう、インディ・ジョーンズシリーズ顔負けの「荒唐無稽な冒険活劇」というよりほかないではありませんか。

そういえば、村上のエッセイ集『村上朝日堂の逆襲』1986)を持っていますが、その表紙に描かれているのはインディ・ジョーンズが鞭を振った瞬間のイラストです。

村上春樹『村上朝日堂の逆襲』表紙
村上春樹『村上朝日堂の逆襲』表紙
Indiana Jones Theme Song [HD]

村上の本作を読む前、私は江戸川乱歩18941965)の随筆・評論集を読んでいました。村上と江戸川乱歩は対照的です。

乱歩は、探偵小説家になって、世間の評価が高まってからも、自分が書く小説に自分で自信を持てなくなることが起こり、犯罪者のように世間から姿を消すことをしています。また、その時のことを、正直に文章に残しています。

乱歩も自身の分身のような主人公を描き、一人称で小説を書いていますが、その中の主人公は、自分に否定的であったりします。

村上の場合は、本作もそうですが、主人公はだいたいにおいて肯定的に描かれています。

また、作品を離れても、村上は自分自身に肯定的で、自分が選んだ音楽こそが優れている、といわんばかりの発言を繰り返します。

そこまで村上は自分に自信を持たれていますが、少しは、自分に疑問を持たれる必要もあるのではないですか?

昔の本コーナーに、竹内まりや1955~)が作る曲が好きになれない、というようなことを書いたのを思い出します。今もその考えに変わりはありません。もっとも、彼女が作る曲のすべてを承知しているわけではないですけれど。

私が昔に彼女を取り上げたときは、彼女の『けんかをやめて』1982)と『駅』1986)について書き、作詞をした竹内への不満を書きました。

竹内の作詞に共通するものを村上の作品にも感じます。そこにあるのは、自分を絶対的に肯定していることで、問題が起こるとすれば、自分以外のものに原因がある、とする考え方ではないでしょうか。

駅 – 竹内まりや

竹内は、自分の分身を主人公に描くような曲の場合は、決して、主人公=自分を惨めには書きません。

同じ竹内が書いた『元気を出して』1984)は、竹内にしては珍しく失恋した女性を書いています。しかし、それは友達の女性で、その女性に対しては、自分ではないから、安心して「元気を出して」と励ませるわけです。

同じようなことを、村上は本作で書いています。

本作に登場する人物で特徴的なひとりは、千葉県船橋で畳職人をしていた父のもとに生まれた(と本人が亨に語っただけ。それが本当であるかは不明)「牛河」という不気味な男です。

村上は、この牛河は、自分とは全然関係ないから、一切の容赦をせず、徹底的に醜く描いています。たとえば、次のように。

男 は 茶色 の 背広 に、 白い シャツ を 着 て、 鈍い 赤色 の ネクタイ を しめ て い た が、 どれ も 同じ くらい 安物 に 見え た し、 同じ くらい 酷使 さ れ て くたびれ て いる よう だっ た。 背広 の 茶色 は 素人 が 間に合わ せ に 塗り替え た ポンコツ 車 の 塗装 を 思わ せ た し、 上着 と ズボン に つい た 航空写真 みたい な 深い しわ には、 もはや 回復 の 余地 は ない よう だ。 白い シャツ は 全体 的 に うっすら と 黄ばん で、 胸 の あたり で ボタン が ひとつ 取れ かけ て い た。 おまけ に サイズ が ひとつ か ふたつ 小さい らしく て、 いちばん 上 の ボタン は 外さ れ、 だらし なく 襟 が よじれ て い た。 でき そこない の エクトプラズマ の よう な 不思議 な 柄 の 入っ た ネクタイ は、 オズモンド・ブラザーズ くらい 大昔 から そこ に ずっと 同じ かたち で 結ば れ っぱなし に なっ て いる みたい に 見え た。 この 人物 が 服装 という もの に対して 注意 なり 敬意 なりを ほとんど 払っ て い ない こと は、 誰 が 見 ても 明らか だっ た。 人前 に 出る のに 何 かを 着 なく ては いけ ない から、 仕方 なく 服 を 着 て いる だけ だ。 そこ には 悪意 の よう な もの さえ 感じ られ なく も なかっ た。 男 は これら の 服 が いつか 破れ て ほどけ て ばらばら の 糸屑 に 分解 し て しまう まで、 毎日 毎日 同じ よう に 着 続ける つもり かも しれ ない。 高地 の 農夫 が ろば を 朝 から 晩 まで こき使っ て、 最後 に 使い 殺す みたい に。

村上春樹. ねじまき鳥クロニクル―第3部 鳥刺し男編―(新潮文庫) (pp.154-155). 新潮社. Kindle 版.

決して容赦しないで、気の済むまで徹底的に痛めつける描写を好む村上です。

同じようなことを、家を出て行った妻の久美子にすることはなかったでしょうか。実はあったのに、都合よく忘れているだけではありませんか?

そうでなかったとしても、本作の牛河のような同僚がいることを久美子に面白おかしく話し、その同僚を、木っ端みじんにこき下ろすようなことはなかったでしょうか。

久美子は亨の話を聴き、表面上は笑いもしたかもしれません。しかし、心の奥で、自分の夫が持つ強烈な差別意識に気づき、それは夫への不信感に育っていった可能性がないでもありません。

ともあれ、このあたりに、隠そうとしても隠せない、村上が内面に持つ残虐性が垣間見えます。

残虐性といえば、先の大戦の終戦の年1945年満州で実際に起きたことを基に描いた場面にも、それが感じられます。

ある任務を命じられたひとりの中尉が、若い兵士に、野球のバットを手渡し、打撃指導をします。

以下は、記憶を頼りに、私が脚色して書いてみます。

「いいか、〇〇。バットというものは、手で握っているからといって、腕で振ろうとしたら駄目だぞ。そんな降り方をしたら、球に当てようとする意識だけが勝り、手打ちになって、球は遠くへ飛んでいかないぞ。バットというものは腰で振るものだと思え。バックスイングのとき、腰をギュッとうしろへ強くひねるんだ。そして、飛んでくる球に向かって腰をぶつけるつもりで前へ勢いよく回転させるんだ。その勢いでバットは自然にスイングし、ヘッドで捉えられた球は遠くへ、遠くへ飛んでいくんだ。わかったか」

バットを一度も握ったことがなかった若い兵士に中尉はバットを握らせ、何度も何度も素振りをさせます。中尉の命令に従い、噴き出る汗も拭わず、兵士は懸命にバットを振ります。

そうやって鍛えたあと、中尉は兵士を、目隠しをされ、前かがみになっている男のところへ連れて行きます。

目隠しされた男は、満州国軍の士官学校の生徒です。その男を含む8人(だったかな?)が、満州国の首都である新京の防衛任務を拒否し、日系の指導教官ふたりを殺して逃げ、その後に捕まったのです。

連れて来られた4人のうち、3人は銃剣で既に処刑され、ひとりの男が残されます。その男が、暴動のリーダー格で、男がバットでふたりを殴り殺したしたのです。

士官学校の野球部は実力があり、リーダー格の男は、その野球部の主将で、4番バッターなのでした。

これからしなければならないことがわかり、ぶるぶると震えている若い兵士に、バットで捕虜の頭を砕くんだ、と命じます。「一振りで決めろよ」と。

練習の甲斐あって、一撃で捕虜の命を奪うことに成功します。実のところ、中尉も兵士も、それまで、一度も人を殺めた経験を持たないのでした。

この場面を書く村上の筆は生き生きとしています。隠そうとしても顔を出してしまうものですね。本来持つ残虐性の一面が。

それを隠さず、自身の延長である一人称の主人公「僕」で描くことができたら、村上作品が一皮むけるであろうことが私には想像できます。

それを隠している間は、せいぜいが「荒唐無稽な冒険活劇」を書くエンタテインメント作家の印象を私は持ち続けることになりそうです。

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