本日も、本コーナーは思いつきの独り語り「気まぐれトーク」の形式にて更新しています。なお、トークは前日の夜に行っています。
本日分の内容につきましては、音声ファイルでご確認下さい。で、そうされない場合は、下にトークを要約して書き起こしていますので、それをお読みになって、トークのだいたいの流れをご想像下さい。
なお、音声ファイルはMP3方式にて紹介しています。再生箇所は前後に自由に移動させることができるますので、下の書き起こしで見当をつけ、聴いてみたい部分だけを“つまみ聴き”するようなこともできます。ご自由にお楽しみ下さい(^ー^)ノ
トークを要約した書き起こし
今回も夜にトークをしているが、トークをする今日は8月11日。ということは、それを文章に書き起こす作業、つまり本ページの更新をするのは翌12日。
まったく私事になってしまって申し訳ないが、8月12日は私の亡き母の誕生日。亡くなってから何年経つか、ほかの人はパパッと数字が出てくるのだろうが、計算が大の苦手な私は、手元にある電卓でコチョコチョと計算をしている。
母がこの世を去ったのは、平成4(1992)年なので、今年で19年になる。まったく時の経つのははやいものだ。この間、私はちっとも進歩をしていないように思え、亡き母に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
無名の個人の誕生でしかなった8月12日が、ある年を境に、それを思い起こさせる日になってしまった。
母が亡くなる7年前の1985年8月12日、大阪の伊丹空港へ向けて羽田空港を飛び立った日航機123便が重大なトラブルに見舞われ、群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し、520人が亡くなるという大惨事が起きた。
以来、母の誕生日が近づくと、決まってこの事故を振り返る報道が新聞やテレビをでしばらく続いた。
この事故機に乗り合わせてしまった有名人がいた。坂本九(1941~1985)である。幸運な星の下に生まれたハズの九さんであったのに、事故機と共に自分の生を終えてしまったのであった。享年43歳。ご健在であれば、今年はまだ69歳である。
朝日新聞の土曜版に「be on Saturday」がある。その“赤版”(「赤のbe」)ではエンターテインメントが特集されているが、その目玉コーナーに「うたの旅人」がある。
ひとつの歌が世に生まれる過程には、その歌が持つ以上のドラマが潜んでいたりする。それを丹念に取材し、文章にしたコーナー。その文字版の「うたの旅人」に、今は映像版の「うたの旅人」が加わった。私も興味を持った回の放送は録画して見ることにしている。
今週火曜日(9日)の放送でその番組が取り上げたのは、日航機の事故の日、すなわち、九さんの命日が近いということでか、『見上げてごらん夜の星を』が取り上げられた。なお、この回はすでに5月に1度放送してあり、今回は再放送であったようだ。
坂本九さんの曲としては、何といっても『上を向いて歩こう』が有名だ。この曲が生まれたのは1961年。ということで、今年はちょうど50年目になるが、その今年、未曾有の災害に見舞われ、多くの人々はこの歌に救いを求めたという。
私も『上を向いて歩こう』は好きだが、それ以上に好きなのが『見上げてごらん夜の星を』だったりする。大変な名曲だと思う。何もないところから詞が生まれ、そしてメロディが生まれた。これはひとつの奇跡だろう。
坂本九さんは、日本軍が真珠湾攻撃をした2日後の昭和16(1941)年12月10日、神奈川県の川崎市に生まれている。
9人兄弟の9番目で「九」と名前がつけられたことは容易に想像がつくと思うが、本名では「九(ひさし)」と読む。また、九さんを生んだお母さんは2番目の妻で、そのお母さんの3番目の子供が九さん。ということで、九さんには腹違いの兄や姉が6人いたことになる。
九さんのお父さんは、川崎で荷役請負業の会社「丸木組」の社長であったそうだ。港に着いた船の荷を積み下ろす仕事は、昔からヤクザの持ち分とされていた。あの山口組も神戸港を拠点に荷役業を一手に担い、のし上がっていった。それより前(だったか?)、横須賀港で幅を利かせていたのが小泉純一郎(1942~)を生む軍港ヤクザの小泉組である。なお、九さんのお父さんがヤクザだったかどうはわからない。
九さんの実母は、父の二番目の妻になる。九さんが高校生の時に両親は離婚し、実母である母に引き取られた九さんは、母の姓に変わり、本名は大島九という。ちなみに、離婚後も父が住む家の近所に住み、家族の交流は続いたという。ならばなぜ離婚? と思ってしまうが、その辺りの事情はもちろん知らない。ちなみに、九さんのお母さんは、料理屋の女将をしたりしていたそうだ。
九さんが子供時代を過ごした川崎市の南町は、立派な遊郭がある花街だったそうだ。遊郭というのは、お上が認めた“売春地帯”といったところだろうか。その中で未来を夢見る子供たちが育っていくわけで、教育環境としては好ましくない。
それを上の世代が心配してか、「どんぐり子供会」という会が作られ、子供時代の九さんも会に入ったそうだ。九さんといえば、あのニッコリした笑顔がすぐ目に浮かぶが、子供時代の写真に残る九さんも、後年の笑顔と同じ笑顔で写っていた。ガキ大将的なところがあり、また、面倒見もよかったのか、みんなから慕われていたそうだ。
この子供会には、今、参議院議員をする松あきら(1947~)もいたという。松は、当時から可愛らしい女の子で、子供会のマドンナ的存在だったという。そのマドンナを守るナイトが九ちゃん、といったところか。松は当時のことを思い出し、「あれほどの人は九さん以外知らない」というように答えている。また、「九さんが初恋の人でした」と“告白”までしている。それだけ、誰をも魅了せずにはおかない何かを九さんは子供の頃から持っていた、ということなのだろう。
だとすれば、九さんが華やかな世界に進み、そこでスポットライトを浴びるのは、半ば当たり前だったのかもしれない、と思わずにはいられない。
どのようないきさつでそうなったのか知らないが、九さんが27歳になる昭和33(1958)年、当時の流行に乗り、日劇を舞台に注目を集めるロカビリー歌手としてデビューを果たす。
その3年後の昭和36(1961)年に、九さんはあの世界的にヒットした『上を向いて歩こう』を歌うことになるわけで、怒濤の勢いで国民的なスターへと上り詰めていくことになり、これはもう、あらかじめ神様が九さんにそうした生き方を用意していくれていたと理解するよりほかないような展開だ。
『上を向いて歩こう』が大ヒットしたあと、次回作として登場したのが『見上げてごらん夜の星を』で、こちらも多くのアーティストが好んで取り上げる永遠のスタンダードナンバーとなった。
作詩は、『上を向いて歩こう』と同じ永六輔(1933~2016)。そして、作曲をしたのは、いずみたく(1930~1992)。これを更新しながら気がついたが、いずみたくが亡くなったのは、母が亡くなったのと同じ1992年だった。いずみたくが5月、母が11月だ。
いずみたくといえば、数多くの歌を作曲し、それが今でも歌い継がれている。しかし、『見上げてごらん夜を』を作曲するまでは、まだ世に知られていなかったのだろうか。
いずみたくは、もともとはミュージカル音楽の作曲家をめざしていたそうだが、一足飛びにはそこへいけず、ダンプカーの運転手をしながら作曲の勉強をしていたという。自分を売り込むため、当時始まっていたテレビ放送のCMソングを作家の野坂昭如(1930~2015)と組んで作り、売り込んだりしたそうだ。当時作ったCMソングには「伊東へ行くならハトヤ」や「チョコレートは明治、「愛のスカイライン」など、当時を知る人なら誰でも懐かしく思い出すものばかりだ。
いずみたくが生んだ曲は数知れず、『ゲゲゲの鬼太郎』(1967)も『恋の季節』(1968)も『夜明けのスキャット』(1969)も『いい湯だな』(1966)もみんな、いずみたくが作曲した曲。
これらの曲のうち、『夜明けのスキャット』と『いい湯だな』、そして今回取り上げている『見上げてごらん夜の星を』は、すでに番組が終わってしまったNHK-FMの「サンセットパーク」にリクエストしている。ということで、私は無意識のうちにいずみさんの作る曲が自分にピタッとくることになりそうだ。
で、肝心の『見上げてごらん夜の星を』だが、これは、まだ駆け出しの永六輔が脚本と演出を初めて担当したミュージカルの主題歌である。それを、こちらもまだ駆け出しだったいずみたくが担当している。念願だった初のミュージカル音楽の仕事だ。ちなみに、舞台装置を担当したのは、その後、『アンパンマン』で有名になるやなせたかし(1919~2013)だ。
永六輔の初ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』は、定時制高校に通う男子生徒が、全日制に通う女性に恋をする。しかし、当時は夜間に通う生徒は社会の底辺に追いやられていたのか、恋することで自分の立場に悩んだりもしただろう。しかし、それをはねのけて生きていく姿が描かれている、のだろうか? 見たことがないのでわからない。
このミュージカルが初演されたのは、昭和34(1959)年だから、九さんが『上を向いて歩こう』のヒット曲を歌う2年前になる。ステージがかかったのは、大阪のフェスティバルホール。10日間ほどの公演で、はじめは客の入りがあまりよくなかったらしいが、途中から客足が伸びたそうだ。また、見客たちが『見上げてごらん夜の星を』を口ずさみながら帰る姿を見て、やなせたかしは感動したという。
このミュージカルの初演のあと、坂本九は『上を向いて歩こう』という大ヒット曲を歌い、一躍国民的な歌手になっている。テレビ番組にも出演していただろう。その九さんがかつてミュージカルの主題歌として歌った『見上げてごらん夜の星を』が1963年、レコード化される。そして同じ年の6月18・19・20日の3日間、東京のサンケイホールでミュージカルが再演される。同じ年には、同名の映画も作られている。
番組では、当時のパンフレットのようなものが写った。興味を持って見ると、いろいろ面白いことに気づく。まず、入場料金が安い。一番いい席のA席でも【700円】、B席なら【500円】、C席にいたっては【300円】だ。今は封切り映画を見ようと思ったら【1800円】もとられる。もっとも昭和38年当時とは貨幣価値が随分違うだろうけれど。
また、出演者の名前を見ていて、ある人の名前に気がついた。ホキ徳田(1937~)だ。九さんが今も生きていたら今年69歳だから、ホキさんは九さんより年上になる。何歳年上かは計算しないでおこう。それにしても、ホキさんはいろいろなところで活躍している。今度、このミュージカルの話も伺えたらと思っている。ホキさんの性格では、忘れてしまった公算が大だが。
番組の最後の方で、次のような九さんの言葉が紹介された。
寂しがっている人には幸せを 泣いている人には喜びを
これは、30歳を目前にした時の言葉だそうだから、『上を向いて歩こう』が人々に知られる直前、あるいは、人々の中に広がっていた頃だろうか。
九さんの生い立ちについて触れた中でも述べてみたが、子供の頃に育ったのが花街で、九さんの周りにも、必死に生きていた人がいただろう。幸せな人ばかりではなかったはずだ。生活のために、自分の身を売る女性の姿も見ただろう。そうした境遇で育ったことで、「どんな人も特別視しなかった」そうだ。これは、九さんが生きていく上での信条であったかもしれない。
そうした思いはいつも九さんの中にあり、それだから、北海道の放送局が制作する福祉番組にも9年間出演したそうだ。もしかしたら、急逝されなかったら、心身に障害を持つ人たちの番組に出演し続けていたかもしれない。
本日分の最後に、優等生に見られることばかりの九さんの、もうひとつの顔の話も。昔から親交があり、お互い、姉弟のような感じだったという黒柳徹子(1933~)が、九さんの意外な一面を紹介していた。
NHKのドラマ「若い季節」(1961~1964)に九さんと黒柳は出演しているが、出演仲間だったハナ肇とクレイジーキャッツのメンバーに、九さんが「女の子が絶対に行かないような場所」(←黒柳さんの言葉)の情報を教えたりしているのを聞いたそうだ。まさか、生まれ育った川崎の南町にあったという遊郭、ではないか?
そういえばずいぶん昔、“いい人”としてしか見られない自分自身について悩んだのだろう。永六輔が、九さんから「どうしたらいいだろう?」というような相談をた持ちかけられた話が新聞か雑誌に載っていた。そのときの永のアドバイスを正確に覚えているわけではないが、「そんなのはある意味簡単だ。他人の評価なんて気にせず、自分の思ったように振る舞えばいいじゃないか」というなアドバイス、だったように記憶している。
九さんといえば、あのスマイルが印象に残るほど、誰にでも優しい人といったイメージが強い。たしかに、そうした面が九さんの大部分を占めていただろう。が、そのイメージと“格闘”するもうひとりの九さんがいた、のかもしれない。それはどこか、あの渥美清(1928~1996)の生き方にに通じるものがある気がする。
そういえば、『若い季節』で、九さんは渥美清と競演している。相談相手としては一番適任のように思えるが、ふたりは腹を割って話をしたことがあっただろうか。