家でとっている地方紙には、「東京日和」というコーナーがあります。東京都内の様々なところを訪れ、街の様子などを伝えるコラムのようなコーナーです
他の新聞でも同じコラムが載っているようですから、どこかの新聞の記者なりが書いたコラムを買って、載せていることになりましょうか。
ともあれ、この日曜日(20日)は、「鉄道愛と人情あふれる街」の見出しの下、その街の様子が伝えられています。
この見出しを見て、都内のどこを訪問したか想像がつきますか。
おそらくは、想像した街とは違っているかもしれません。都内に唯一残った都電の終発着駅である三ノ輪橋停留場がある、東京・荒川区の三ノ輪(みのわ)周辺です。
三ノ輪と聞くと、私は反射的に写真家の”アラーキー”こと荒木経惟(1940~)を思い出します。アラーキーは、三ノ輪で生まれ育っているからです。以前に見たNHKのドキュメンタリー番組にアラーキーが登場しましたが、実家の近くにあった浄閑寺(じょうかんじ)を訪れ、そこがアラーキーの子供の頃の遊び場だったと思い出を話していました。
アラーキーに出会ったことで、東京の下町に三ノ輪というところがあるのを知りました。また、浄閑寺というのが、昔は「投げ込み寺」であったことも教えられました。
それまで、「駆け込み寺」というのがあるのは知っていましたが、「投げ込み寺」があることは、そのとき初めて知りました。
地図で周辺を確認すると、昔に遊郭があった吉原の目と鼻の先に三ノ輪があります。そんな空気の中で育ったことが、アラーキーの作風を生んだといえましょう。
三ノ輪といえば、岡本綺堂(1872~1939)の『箕輪心中』を読み終えたばかりです。
この話の舞台のひとつが箕輪(みのわ)です。今の三ノ輪であることは疑いようもありません。
綺堂が書く時代小説ですから、江戸時代の話です。その当時の箕輪は、まだ開けておらず、箕輪田圃といわれるように、田圃が広がるようなところだったようです。
その村に、十吉という若者が、母のお時(とき)と二人で暮らしています。十吉は十八で、生真面目な性格です。母のお時は、夫と娘と死に別れ、十吉と質素に暮らしています。
十吉にはお米(よね)という十六になる娘と近い将来、所帯を持つことが、お時とお米の両親との間で、認められています。お米には、しっかり者で好奇心の強いところがありますが、それに比べて十吉は奥手の性分で、目と鼻の先に吉原という、好きな男にはたまらない遊郭が控えているというのに、一向に、そちらには関心が向かいません。
正月も10日を過ぎたその日の夕暮れ、縁側に十吉とお米が腰をかけ、思いつくままの話をしています。お米は吉原に初午を見に行こうとせがみますが、十吉はそれにちっとも取り合わず、お米に「十さんは、吉原嫌いだね」と呆れられます。
これでは、どちらが年上だかわかりません。所帯を持ったなら、お米は、さぞやしっかり女房になることでしょう。
お時は、毎年、年頭と盂蘭盆には、麹町(こうじまち)番町にある屋敷を訪れます。そこは、五百石の旗本である藤枝家の屋敷です。先代の藤枝外記(ふじえだ・げき)は、御書院の番頭を勤めたこともある侍です。その殿様に息子が生まれたとき、22歳だったお時が、乳母を勤めます。
その一年ほど前、お時はお光という娘を生みますが、1年ばかりで死んでしまいます。どこからか、お時の乳が出ることを知った藤枝家が、自分の息子の乳母としてお時を屋敷に呼んだのです。
お時は、息子の五つの祝いのあと、奉公を許されて家に戻りますが、以後も、屋敷への出入りを許され、年頭と盂蘭盆には欠かさず挨拶に伺うというわけです。
その後、お時は十吉という息子を得ます。夫と死に別れたお時は、今は息子の十吉と二人暮らしです。気前の良いお米と所帯を持たすことが、目下のお時の楽しみといったところです。お時はお米を「お米坊」と呼び、自分の娘のように接しています。
お時にも優しかった藤枝家の殿様と奥様が亡くなり、若様が跡を継ぎます。若様は二代目の外記となります。16歳のときのことです。外記は学問と武芸に優れ、情けも深く、義理も硬く、道理もわきまえているといったように、非の打ち所がない若者に育ちます。
そんな若者だった外記が、ひとりの女と出会ったことで、人生が暗転します。
出会いは、たなばた祭りの夜です。
それまでの外記は真面目一方で、遊びは心得ていませんでした。そんな外記が、たなばた祭りでにぎわう浅草辺りを、仲間の侍と二人で歩いていました。
その二人にすれ違ったのが、綾衣(あやぎぬ)という二十二になる女です。綾衣が外記らとすれ違ったとき、綾衣は、着ていた着物の袖をぐっと掴まれ、体が倒れ掛かります。
外記と歩いていた侍が腰に指していた刀の柄が綾衣の袖に引っかかり、危うく刀が飛び出しそうになり、慌てて、袖ごと掴む格好になったのです。
倒れ掛かった綾衣を支えたのが外記で、二人の顔は、息がかかるほど近づきます。
その出来事のあと、外記は、遊び慣れた侍に誘われ、初めて吉原を訪れます。その侍には馴染の花魁がおり、同じ置屋(本作では「大菱屋」)にいる綾衣に、外記は吉原で再会するところとなりました。
綾衣は、幼い頃に両親と死に別れ、六つのときに売られ、十六のときから店に出て、男をとっています。十九のときには、芝の商人から見受けの相談があったものの、抱え主は金で折り合わず、綾衣自身も相手が気に入らず、今に至っています。
遊びを知らなかった外記は、綾衣を気に入り、彼女だけを指名するようになります。綾衣にとっても、外記を最初で最後の男と認め、二人の恋が燃え上がります。
そうはいっても、五百石の旗本と遊女が一緒になれる道理がありません。外記は吉原通いを止めるよう迫られ、厳しい立場に追い詰められていきます。
それを知ったお時としても、気が気ではありませんが、ただの庶民の自分にできることは何もありません。
梅雨で雨が続くある夜、土砂降りの中を、外記が綾衣を連れて、お時と十吉が住む箕輪の田舎家を訪ねてきます。外記は、綾衣をしばらく匿ってくれと頼み、雨の中を帰っていきます。
一月ばかり綾衣を匿いますが、見知らぬ綺麗な女がいることにいつの間にか気がついたお米が、ある日訪ねて来て、十吉につらく当たります。お米は綾衣を、十吉の新しい女と勘違いし、怒っているのです。
お米の訴えを聞いた十吉は、「そりゃあ飛んでもない間違いだ」と笑います。しかし、真相を話すわけにもいきません。十吉としても、次のようにいうことだけしかできません。
「わたしが何でほかの女なぞを連れて来るものか、積もって見ても知れたことだ。まあ、黙って見ているがいい。あとで自然に判るから」
岡本 綺堂. 『岡本綺堂全集・242作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.107061-107062). Kido Okamoto Complete works. Kindle 版.
十吉のいい分を信じないで、十吉を責めるお米の声を、家の奥の納戸に隠れて聴いていた綾衣が、二人の前に出てきて、しんみりと話す場面がいいです。
彼女はしずかに縁さきに出て、そこに泣き倒れているお米の肩をやさしくなでた。
「もし、お米さんとかいう子、お前も短気はやめなんし。わたしはこう見えてもほかに立派な男がおざんす。ここの家のお嫁かなんぞのように疑われては、十さんも迷惑、わたしも馬鹿らしゅうおす。もういい加減に泣くのを止めて、十さんと仲好くおしなんし」
岡本 綺堂. 『岡本綺堂全集・242作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.107076-107080). Kido Okamoto Complete works. Kindle 版.
綾衣は、そこにる若い二人を見て、次のような話もします。
お前が十さんと約束のあることは、わたしもここの阿母さんから聴いて知っている。こうして列べて見たところが丁度似合いの夫婦である。お前さん達は羨ましい。たとい一生を藁ぶき屋根の下に送っても、思い合った同士が仲よく添い遂げれば、世に生きている甲斐がある。いくら花魁の、太夫のと、うわべばかりに綺羅を飾っても、わたし達の身の果てはどう成り行くやら。仕合せに生まれた人たちと不仕合せに生まれた者とは、こうも人間の運が違うものか。返すがえすもお前さん達が羨ましくてならない。
岡本 綺堂. 『岡本綺堂全集・242作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.107091-107097). Kido Okamoto Complete works. Kindle 版.
綺堂の話は、どれを読んで素晴らしいです。綺堂にこそノーベル文学賞を授けたい気分ですが、綺堂が生きていた頃は、そんな賞はなかったのでしょうか。
調べてみると、第1回目の授与は1901年にあり、フランスの詩人、シュリ・プリュドム(1839~1907)が受賞しています。
綺堂は1939年まで生きましたので、受賞の機会を設けることはいくらでもできたはずです。受賞作家を決めるのは白人で、黄色人種の日本人の文学は、はじめから選考の対象にはされなかった(?)のでしょうか。これは半分冗談ですが、現在に至っても同賞に選考の片寄りがあることは、多くの人に指摘されるとおりです。
本ページで紹介した『箕輪心中』顛末が気になる人は、作品に接し、綺堂の語り口に酔ってください。