前回の東京五輪の翌年、日本人が絡む事件が、日本から遠く離れたオランダのアムステルダム発のニュースとして報じられましたが、ご存知でしょうか。私はまったく知りませんで、松本清張(1909~1992)の推理小説を読んで初めて知りました。
私は今、Amazonの電子書籍部門のサービス、Kindle Unlimitedが利用できる環境にあります。それを利用して今回は、清張の中編集『アムステルダム運が殺人事件』(1970)を読みました。
Kindle Unlimitedというのは、月額980円収めることで、該当する本を追加料金なしで好きなだけ読めるサービスです。私は、10月半ばから来年4月半ばまでの期間、このサービスを利用できるため、該当する清張の作品を読んだというわけです。
本作は中編小説で、ほかに、『セント・アンドリュースの事件』が収められています。
清張が本作中に書いたことで知りましたが、エドガー・アラン・ポー(1809~1849)の作品に『マリー・ロジェの謎』(1842)があるそうです。これは、ニューヨークで現実に起きたメアリー・ロジャースという20代前半の女性が殺害された事件を、ポーが舞台をパリに移し、ポーが書いた当時は解決されていなかった事件を、ポーなりに推理する作品に仕立て上げたそうです。
清張はこの前例に倣い、アムステルダムの運河で発見された邦人のバラバラ死体を巡る事件の謎解きをする体裁を採っています。
現実に起きた事件を、ネットの事典ウィキペディアの記述や、本作の文章などで見ておきます。
1965年8月26日の夕方、アムステルダムの旧市街地にあたる運河に、大型のトランクが浮かんでいるのが、周辺に住む住民によって発見されます。警察がそれを引き揚げて中を確認すると、頭部と両方の手首から先、両脚が付け根から切断された裸の胴体が現れます。
季節が夏ということもあり、腐乱が進み、悪臭を放っていました。

トランクに胴体と共に入っていたものを、清張の文章で紹介しておきます。
胴体の両側には切断された灰色のスポーツ・シャツとパンツの一部、ならびに三〇センチ四角の、 ふちにギザギザのついた白い布切五枚が詰められてあった。いずれも血塗れである。この白い布切は洋服屋が持って回る布地見本を思わせ、それぞれ〝3〟〝5〟〝7〟〝10〟〝13〟の番号がついてい た。
パンツには彼らの解読できない東洋文字の記号があった。これは胴体の皮膚が黄褐色であること、陰毛が黒いことなどで東洋人と判断する上に役立った。
松本 清張. アムステルダム運河殺人事件 (角川文庫) (pp.9-10). 角川書店. Kindle 版.
地元警察の調べで、早い段階に、殺害されてバラバラにされたのは、ベルギーに駐在する日本の商社員男性であることが断定されます。清張は個人名を、本名とは違う、「坂崎次郎」(24)としています。
坂崎氏は大阪にある石田物産(仮名)という繊維製品を扱う小さな貿易会社の社員で、事件に遭う3週間前、二代目の駐在員として着任したばかりでした。
坂崎氏が勤めるブリュッセルの事務所は、坂崎の住まいも兼ねるアパートです。同社の駐在員はほかにおらず、坂崎氏がひとりで、日本の本社と連絡を取り、商品の買い付けや販売などをしていたのでしょう。
その坂崎氏が何者かに何らかの理由で殺害され、坂崎氏が会社の金(米ドルで4千ないし5千ドルのトラベラーズチェック)や商品の見本などを入れて置いた大型のジュラルミン製トランクに、胴体と手首から先のない腕だけに切断されて詰め込まれ、アムステルダムの運河に棄てられてしまいます。
事件は、遺体の一部が発見されたのがオランダのアムステルダムで、被害者が隣国、ベルギーのブリュッセルに住んでいた異邦人であるという複雑な条件が災いしたのか、犯人を突き止められずに終わっています。
容疑をかけられたひとりに、坂崎氏と同じように、日本の貿易会社の社員で、ブリュッセルに駐在する雨宮繁太(仮名)という同年配の独身男性がいます。雨宮氏は、神戸にある、雑貨を専門とする葉村貿易商会(仮名)の社員で、事件の3カ月前から当地に住んでいました。
坂崎氏は、先輩格の雨宮氏が暮らすアパートが車ですぐのところにあることもあって(ふたりとも車を持ち、日頃から運転をしています)、毎日のように、それぞれのアパートを訪問して付き合う仲だったようです。
雨宮氏は事件後、事件を捜査するオランダの警察官から2度取り調べを受け、3度目の取り調べの直前となる同年9月6日午前11時頃、ブリュッセル郊外に延びるハイウェイのトンネル内で、側壁に衝突する事故を起こし、命を落としました。
ベルギーの警察は、雨宮氏の運転ミスによる事故としますが、オランダの捜査陣は、事故を装った自殺の見方を持ちます。
もうひとつ意外だったのは、当時、ベルギーでは車の免許がなくても車を運転できた、と書かれています。本当でしょうか。
このような展開を見せながら、結局は未解決のままとなります。
そこまでを、関係者の名前や会社名を装いつつ、清張は現実に起きたことを伝え、そのあと、清張なりの推理を展開し、清張が考えた犯人を示します。
清張の創作の語り部となる「私」は、とある総合雑誌の記者です。その「私」が、国際経済問題を取材するため、ブリュッセルへ行くことが決まります。「私」がベルギーへ取材で向かうことをどこからか聞いたのでしょう。事件の嫌疑をかけられたまま事故死した雨宮氏に近い日本に住む人から「私」は、取材の合間に事件の真相を調べてもらえないか、と頼まれます。
「私」には同行者がひとりいました。久間鵜吉(くま・うきち)(ペンネーム)という50そこそこの男です。久間は医師で、相当大きな病院の院長をしていたものの、「経営が煩わしい」からと実弟に譲り、その後は悠々自適の生活をしています。
若隠居となったような久間は、犯罪学に興味を持つことから、久間鵜吉のペンネームを使い、様々な犯罪を自分なりに考証しては随筆にして発表するようなことをしています。
「私」が久間に会って、雨宮に近い人から事故の真相の調査依頼をされた話をすると、乗り気になり、「私」に同行することになったのです。
「私」と久間は、事件から3年後、現地で関係者を捜して、会える人には会い、彼らが憶えていることなどを聴き出し、彼らなりの推理をします。
「私」と久間が導き出した犯人は異なりますが、どちらも真相に近いように思えます。
本作は1969年、『週刊朝日カラー別冊Ⅰ』の4月号に掲載され、翌年の3月、中編集『アムステルダム運が殺人事件』の表題作となって出版されています。
清張の作品に『死の配送』(1982)という作品があります。その作品でも死体が大型のトランクに詰め込まれます。こちらは死体がバラバラにはされません。『週刊公論』でこの作品の連載が始まったのが1961年です。連載当時の作品名は『渇いた配色』でした。
本作品の連載には紆余曲折があり、連載していた雑誌が連載を始めた年の8月21日号で休刊となり、一旦、連載が止まってしまいます。その翌年、今度は『小説中央公論』に発表の場を移し、その12月号で連載を終えています。
今回取り上げた事件は1965年8月末に起きており、清張の作品の連載が終わった1962年11月から数えれば2年と10カ月後ぐらいになります。
もしも犯人が日本人で、日本に住んでいたとすれば、清張のトランク詰め事件の物語を読んでいた可能性がないでもありません。
もっとも、それを読んでいなくても、切断したものの、それでもまだ大きな胴体の隠し場所に困り、殺した男の持ち物だった大型のトランクをそれに使っただけのことかもしれませんが。
アムステルダムの本事件は、他の人も取り上げて書いているようですから、機会があればそれも読んでみることにします。それぞれが、それぞれの真犯人を推理している(?)でしょうか。