村上が綴る性に狂った男と女の顛末

「母ちゃん、ズボンが破けちゃったよ」「ありゃ~、またかい」

冗談で始めるしかないような気分で、また、村上春樹1949~)の作品について書きます。今回は、村上7作品目の長編小説『国境の南、太陽の西』1992)です。

分類は長編になりますが、前回の更新を終えた昨日の昼頃に読み始め、今日の昼頃には読み終わりました。読むのが決して早くない私がほぼ一日で読みえ終えることができたのですから、中編に近い長編ではなかろうか(?)と思います。

本作が出版されたのは1992年10月です。前回取り上げた、村上が「旅行記のような」ものと書いた『遠い太鼓』という紀行文章に書かれていることは、村上が陽子夫人と1986年秋から1989年秋まで3年間の南ヨーロッパ滞在記です。

『ノルウェイの森』1987)が空前のベストセラーになったことで、一躍時代の寵児となった村上は、日本にいる限り常に注目されることを嫌った(?)のか、3年間のヨーロッパ滞在を終えたあとも、日本に住み続けることに抵抗感のようなものを持つようになったのでしょうか。

真の理由は当人に訊いてみるよりほかありませんが、1991年1月には、米国の大学の客員研究員になったことを理由に、今度も夫人同伴で米国に創作の場を移しています。1989年10月に一度帰国したあと、すぐに英国へ(だったかな?)へ行き、1990年1月に戻っていますので、これらの期間は、1年間だけしか日本にいなかったことになります。

村上が米国に戻るのは、4年後の1995年4月で、村上46歳の年です。

本書について書かれたネットの事典「ウィキペディア」の記述を見ますと、少々変則的な経緯で出来上がった作品のように思われなくもありません。

米国に落ち着いた1991年2月、村上は『ダンス・ダンス・ダンス』1988)の次の作品として『ねじまき鳥クロニクル』(第1部・第2部 1994|第3部 1995)を1年程度かけて執筆しますが、出版前の原稿を読んだ陽子夫人に「多くの要素が盛り込まれすぎている」と指摘され、それを受け入れた村上は、その作品から分離した部分を基にして本作に仕立て上げたようです。

この逸話を知ると、村上が夫人の指摘を素直に受け入れたことに驚きます。プロの作家であれば、プライドが高く、夫人の指摘であっても、はねのけることが多そうに思われるからです。

本作を読み始めてすぐ、同じような村上作品を読んだことがあったように感じました。

主人公は「僕」で、例によって「僕」の一人称で書かれています。「僕」は12歳の小学生で、住んでいるところは明確にしていませんが、村上が住んだ神戸であろうことが想像できます。「僕」は一人っ子で、村上も一人っ子ですので、これもまた、他の作品によく見られるように、村上自身がモデルに重なります。

「僕」は他者にあまり心を開かず、12歳の「僕」が唯一心を開いたのは、自宅と目と鼻の先に、「僕」が5年生のときに引っ越してきた「島本さん」という同級生の女のだけです。女の子は生まれつき左脚が悪く、脚を回転させるようにして歩きます。「僕」と「島本さん」を結び付けるのは、二人が一人っ子という共通点を持つことです。

本日の豆不満
「僕」は「島本さん」をはじめから終わりまで「島本さん」と呼びかけます。ところが、成人した「島本さん」は、「僕」を名前の「ハジメくん」と呼びます。「ハジメさん」ならまだしも、「ハジメくん」では、同い年でありながら、少し下に見ているような印象で、読んでいて引っかかります。

村上作品の主人公は、思い込みが激しい性格を持ちます。「僕」は「島本さん」を運命の人のように信じ込み、自分と彼女だけで地球が回っているように感じます。

この関係は、たとえば『ノルウェイの森』の「僕」と「直子」に共通することです。「僕」は「島本さん」や「直子」を失うことを極端に恐れ、挙句には、現実と幻想が錯綜するような心境へと追い込まれていきます。

「僕」の住む家が電車で2駅ほど離れた町へ引っ越したことで、中学以降は、「島本さん」との交際は途絶えてしまいます。

高校2年の年、「僕」に「イズミ」という、同じ学校に通う同級生のガールフレンドができます。彼女は裕福な家の娘で、器量にも恵まれています。イズミは、「僕」との肉体関係を先延ばししてくれるよう「僕」に頼みます。

そうしていた矢先、「僕」はイズミの従弟の女性(2歳年上)と肉体関係を結んでしまいます。そうなるいきさつが、これまた「僕」の身勝手な理由で、その従弟が運命の人で、出会った瞬間に、互いが肉体関係を望んでおり、当然のことのように肉体関係を持ちます。

彼らは日曜ごとに会い、会っている間中、セックスに狂います。それが2カ月程度続き、潮が引くように、二人の関係は終わります。

「僕」と従弟の関係を知ったイズミは深く傷つきます。

このあたりの展開を読むと、村上と村上作品を解説した『1冊でわかる村上春樹』に書かれていたことを思い出します。そこには、村上が高校生のとき、ある事件を起こし、それが原因で、クラスの女生徒の多くからまったく口をきいてもらえなくなった、とあります。

それがどんな出来事なのかわかりませんが、もしかしたら、本作に登場するエピソードに似た事件を村上が現実に起こしたことがある(?)のかもしれません。客観的に見ても、本作の「僕」がしたことは、自分勝手なことです。

本コーナーで前回取り上げた紀行文集の『遠い太鼓』の中で、村上は自分を「だらしなくていい加減な人間」と書いています。

本作でも、主人公の「僕」の会話で、自分の性格を次のように話す場面があります。

(前略)僕は今、こうして君を傷つけている。それはたぶん僕が身勝手で、ろくでもない、無価値な人間だからだと思う。僕はまわりにいる人間を意味もなく傷つけて、そのことによって同時に自分を傷つけている。(後略)

村上春樹. 国境の南、太陽の西 (講談社文庫) (Kindle の位置No.3454-3456). 講談社. Kindle 版.

村上という作家の心の奥には、これに通じる思いが強くあり、自分が高校生の時に取り返しのつかない出来事を起こし、そのことへの贖罪(しょくざい)が、作家活動の原動力になっているのではないか、と考えてしまうほどです。

同じようなテーマが、村上の様々な作品に繰り返し登場するからです。

己の未熟さによってひとりの異性を裏切り、もしかしたら、その人を死に追いやるほどのダメージを与えてしまいます。そのことに本人も苦しみ、二度と同じ過ちを犯すまいと思うものの、本作でも再び同じ過ちをしてしまいます。

Duke Ellington & Billy Strayhorn – Star-Crossed Lovers

読んでいてつくづく、「僕」を「救いようがない奴だなぁ」と思いました。

精神的な交わりだけであればまだいいのですが、村上の場合は、濃厚な性の交わりとして描きます。本作ではそれが行き過ぎたため、ドイツでは、性の表現を巡り、文学論争に発展したとウィキペディアの記述にはあります。

たしかに、その部分を読みますと、あまりのどぎつさで、ハードコアのポルノ小説を読んでいるような気分になります。

村上作品にアレルギーを持つ人の何割かは、村上の性描写好きに嫌悪感を持つせいではないのか、と考えたりします。村上がなぜそれほどまでにその表現をしたいのか、誰かが彼に取材を持ち込み、すべて語らせて欲しいと思うくらいです。

『羊をめぐる冒険』1982)でも、この作品のときは名前を持たず、『ダンス・ダンス・ダンス』で彼女は「キキ」だったと名前を与えられた、耳のモデルで娼婦をする女性が、「僕」との「冒険」の途中で急に姿を消してしまいます。

同じようなことが、本作でも起こります。

これは村上の得意な表現方法で、そのように描写することで、すでに書かれたことが、実は本当に起こったことではなく、すべては「僕」が見た「幻想」のように思わせる効果を得ます。

『ノルウェイの森』の主人公「僕」に、私は主体性のなさを感じましたが、本作の「僕」も肝心なところでは主体性をなくすというずる賢さを見せます。それを感じさせるのが次の、「僕」と「僕」の妻の会話です。

「(前略)何かに追われているのはあなただけではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのはあなただけじゃないのよ。私の言っていることはわかる?」

「わかると思う」と僕は言った。

村上春樹. 国境の南、太陽の西 (講談社文庫) (Kindle の位置No.3519-3521). 講談社. Kindle 版.

私が「僕」の妻の立場であれば、「『わかると思う』? 何、他人事(ひとごと)みたいないい方をしてんのよ! あなたの考えを訊いているのよ! わかるんだったら、『わかると思う』なんていわないで、『わかる』といいなさいよ!」といいたくなります。

村上作品のほとんどは一人称で書かれ、主人公の「僕」は、常に断定的ないい方はせず、たとえば、「わかると思う」といったいい方で逃げます。この表現の裏に隠されているのは、責任を取りたくない態度です。

そうやって、自分勝手なことをしでかして、しでかされた人を傷つけて苦しめ、時にはその人を死に招いても、「自分のしたことは悪かった、と思う」と逃げる心理が主人公の「僕」には常に漂っています。

前回の本コーナーで取り上げた『遠い太鼓』に書かれていたように、『ノルウェイの森』が空前の大ヒットとなったにも拘わらず、村上の心は冷え切り、しばらくの間自分の文章をまったく書けなかった、と書いています。その理由のひとつに、嫌なことがあったからとしていますが、村上が書く性表現への風当たりの強さを村上が知り、自分の表現を否定されたように感じたこともあった(?)かもしれません。

それを乗り越えた村上が、本作では、それまでに発表された作品よりも過激な性表現をしています。そこには、自分への風評に負けまいとする村上の心意気が見て取れなくもありません。

私は、まだ読んでいない村上作品をAmazonの電子書籍版で出版順に読むことをしてます。いささかヘヴィーな作品を読んだあとは、随筆集の『やがて哀しき外国語』1994)ですから、村上の地の文を、安心して味わうことを許してくれるでしょう。

Casablanca – As Time Goes By – Original Song by Sam (Dooley Wilson)

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