2002/02/24 「東電OL殺人事件」で人権問題を見れば

昨日の朝日新聞の記事ですが、その記事では、法務省が今国会(第154回通常国会)に提出しようとしているという「人権擁護法案」(仮称)について触れています。

その法案が通れば、たとえば一個人がプライバシーを侵害された場合、人権委員会に救済を申し出ることができるようになるのだそうです。

その法案が実際に国会に提出されるのかどうか、あるいは法案化されることがいいのかどうかは別にして、そのプライバシーの扱いをめぐる問題を考える“テキスト”として、本コーナーでも何度も書いています「東電OL殺人事件」が取り上げられており、私はそのことに興味を覚えました。

記事には、当事件発生当時から精力的な取材を続け、それを『東電OL殺人事件』『東電OL症候群(シンドローム)』(共に新潮社)と2作の著作にして発表されたノンフィクション作家の佐野眞一氏と、事件発生後興味本位でプライバシーを暴き立てたマスメディアに対し一貫して意義を申し立て続ける弁護士の飯田正剛氏双方の意見が掲載されています。

それを読むことでそれぞれの立場からの主張は理解できます。

が、腑に落ちない点が一つあります。それは、それを伝える朝日新聞社としてはどういう立場を採るのか、ということが全く明らかにされていない点です。記事は、今も書いた通りの両氏の主張の他、事件の概略、法案について、法務省の談話だけが載っているだけで、朝日の主張らしい主張はどこを見渡しても見当たりません。

それを悪く解釈すれば、自分を安全な立場に置きつつ、人(識者)を使って権力(この場合は法務省)に立ち向かわせている、と取れなくもありません。

佐野氏は、そうした“人権擁護”に名を借りた腰の引けた報道に対し、実は『東電OL症候群』の中で次のように厳しく指摘しています。

新聞を見てもう一つ呆れたのは、ほとんど全紙が被害者の渡邉泰子を、東京電力の女性社員と匿名扱いしていることだった。彼らは被害者の名前を匿名にさえしておけば、「人権派」弁護士たちからクレームがつく心配もなく、被害者の人権も守られる、とでも考えているのだろうか。彼らは、機械的に行われるその操作自体が、被害者に対する判断停止を招いていることを一度でも想像したことがあるのだろうか。
最も厚顔だったのは朝日新聞だった。東京電力の社名に遠慮してなのか、見出しになんと、「電力・OL殺害」という表現を使った。テレビの「進め!電波少年」をイヤでも連想させるその見出しには、偽善がもたらす高の括り方と冷笑が集約されているようで、その醜悪さに思わず目をそむけたくなった。さすがに恥ずかしくなったのか、遅版で「渋谷・OL殺害」と訂正したのが、かえって情けなく笑止千万だった。
(中略)
Wという匿名で生き、Wという匿名で死んでゆく人間などこの世に一人も存在しない。みな自分の名前で生き、自分の名前で死んでゆく。私は東電OLの名前を匿名にすることこそ、故人を冒涜することだと思った。そして、彼女自身も望むであろうという確信をもって実名を使った。彼女を名なしの女性として扱い「電力・OL」と表記した朝日新聞は、生きて死んでゆく「人間」より「人権」というお題目の方が大事だとでもいうのだろうか。

以上の抜粋部分が佐野氏の基本的な考え方であり、今回の当の朝日新聞の取材に対しても同様の意見を寄せています。

今回の記事に、佐野氏と共に意見を寄せている弁護士の飯田氏は、東電OL殺人事件に対しても「実名はどうか」と今現在も疑問を呈しつつ、佐野氏の一連の仕事に対しては一定の評価を示しています。

それにも増して彼が問題視しているのは、「セックス絡みとか単に面白い話題に飛びつくという興味本位な(一部マスメディアの)姿勢」であり、事件発覚当時も、その点でマスメディア各社に仲間の弁護士17人と共に公開質問状を出したのだといいます。

書かれる立場の人間にとっては実名での表記には非常に抵抗があることは充分理解できます。

しかし、ノンフィクション作家として、一人の人間により深く迫ろうとした場合、イニシアルなり匿名なりで書いてしまうと、その時点で、この世に確実に実在し、私たちと同じように息を吸い、息を吐いていた生身の人間としての“生の匂い”が失われてしまう感覚に襲われるに違いありません。

そしてその“生の匂い”こそが作家が表現したい本質であるとしたら、どうしても実名を使いたいというのは当然の欲求です。

少なくとも、「触らぬ神に祟りなし」的に初めから機械的に問題を処理している限り、本来見えるものも全く見えてこないとはいえるでしょう。

最後に、今回の記事の中で述べていらっしゃる佐野氏の言葉を抜粋しておきたいと思います。

作家というのは、たえずプライバシーの問題に心を砕きながら、どう表現するか闘う。変に取られても困るが、遺族から訴えられることも覚悟している。でもそれはぼくと当事者の問題であって、第三者に言われることではない。だから甘えていい、ということでもまったくない。

気になる投稿はありますか?

  • 痛ましい踏切事故痛ましい踏切事故 昨日(7日)の朝日新聞社会面に痛ましい事故の記事が載っていました。 6日午前9時頃、群馬県高崎市内を走る上信電鉄の踏切で、小学校4年生の少女が、走ってきた電車にはねられ、全身を強く打って亡くなる事故があったことが報じられました。 記事によると、その踏切は小規模なもので、遮断器や警報機がついていないそうです。 電車を運転していた運転士は、踏切に人影を発見し、 […]
  • 一方的に疑われ罰せられそうな紅麹サプリメント問題一方的に疑われ罰せられそうな紅麹サプリメント問題 小林製薬が製造・販売するサプリメント「紅麹コレステヘルプ」を服用して健康被害が出たとされている問題は、それが報道されて昨日で2週間となります。 本報道が始まった当初、私はその報道を見ても、そういうことが起こったんだといった程度の認識しか持ちませんでした。 その後、厚生労働省の職員らが同社の工場を立ち入り検査するなどの動きがあり、次第に注意深く報道を見るようになり […]
  • 大谷選手を巡る問題を時系列で見ると大谷選手を巡る問題を時系列で見ると ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手(1994~)を巡る問題は収まる気配がありません。 https://indy-muti.com/50714/ 本件を解く鍵が大谷選手の通訳を長年に渡って務め、公私とものサポートをした水原一平氏(1984~)にあると考える人が多くいるでしょう。 本件を早くから取材している米国のスポーツ専門局ESPNが、水原氏に電話取 […]
  • 大谷選手へ贈る「雄弁は銀」大谷選手へ贈る「雄弁は銀」 英語の諺に”Speech is silver, silence is […]
  • 大谷選手の通訳をした水原氏は窃盗犯なのか?大谷選手の通訳をした水原氏は窃盗犯なのか? 極めて順調に見える人生においても、「好事魔多し」を思わせる出来事です。 今シーズンからロサンゼルス・ドジャースに移籍した大谷翔平選手(1994~)の通訳を務め、公私にわたって大谷選手をサポートしていた水原一平氏(1984~)がドジャースから解雇されたとの報道は、韓国で行われたドジャースのオープン戦の期間中です。 私は大リーグには関心がなく、大谷選手の試合も見たこ […]