昨日の朝日新聞の記事ですが、その記事では、法務省が今国会(第154回通常国会)に提出しようとしているという「人権擁護法案」(仮称)について触れています。
その法案が通れば、たとえば一個人がプライバシーを侵害された場合、人権委員会に救済を申し出ることができるようになるのだそうです。
その法案が実際に国会に提出されるのかどうか、あるいは法案化されることがいいのかどうかは別にして、そのプライバシーの扱いをめぐる問題を考える“テキスト”として、本コーナーでも何度も書いています「東電OL殺人事件」が取り上げられており、私はそのことに興味を覚えました。
記事には、当事件発生当時から精力的な取材を続け、それを『東電OL殺人事件』『東電OL症候群(シンドローム)』(共に新潮社)と2作の著作にして発表されたノンフィクション作家の佐野眞一氏と、事件発生後興味本位でプライバシーを暴き立てたマスメディアに対し一貫して意義を申し立て続ける弁護士の飯田正剛氏双方の意見が掲載されています。
それを読むことでそれぞれの立場からの主張は理解できます。
が、腑に落ちない点が一つあります。それは、それを伝える朝日新聞社としてはどういう立場を採るのか、ということが全く明らかにされていない点です。記事は、今も書いた通りの両氏の主張の他、事件の概略、法案について、法務省の談話だけが載っているだけで、朝日の主張らしい主張はどこを見渡しても見当たりません。
それを悪く解釈すれば、自分を安全な立場に置きつつ、人(識者)を使って権力(この場合は法務省)に立ち向かわせている、と取れなくもありません。
佐野氏は、そうした“人権擁護”に名を借りた腰の引けた報道に対し、実は『東電OL症候群』の中で次のように厳しく指摘しています。
新聞を見てもう一つ呆れたのは、ほとんど全紙が被害者の渡邉泰子を、東京電力の女性社員と匿名扱いしていることだった。彼らは被害者の名前を匿名にさえしておけば、「人権派」弁護士たちからクレームがつく心配もなく、被害者の人権も守られる、とでも考えているのだろうか。彼らは、機械的に行われるその操作自体が、被害者に対する判断停止を招いていることを一度でも想像したことがあるのだろうか。
最も厚顔だったのは朝日新聞だった。東京電力の社名に遠慮してなのか、見出しになんと、「電力・OL殺害」という表現を使った。テレビの「進め!電波少年」をイヤでも連想させるその見出しには、偽善がもたらす高の括り方と冷笑が集約されているようで、その醜悪さに思わず目をそむけたくなった。さすがに恥ずかしくなったのか、遅版で「渋谷・OL殺害」と訂正したのが、かえって情けなく笑止千万だった。
(中略)
Wという匿名で生き、Wという匿名で死んでゆく人間などこの世に一人も存在しない。みな自分の名前で生き、自分の名前で死んでゆく。私は東電OLの名前を匿名にすることこそ、故人を冒涜することだと思った。そして、彼女自身も望むであろうという確信をもって実名を使った。彼女を名なしの女性として扱い「電力・OL」と表記した朝日新聞は、生きて死んでゆく「人間」より「人権」というお題目の方が大事だとでもいうのだろうか。
以上の抜粋部分が佐野氏の基本的な考え方であり、今回の当の朝日新聞の取材に対しても同様の意見を寄せています。
今回の記事に、佐野氏と共に意見を寄せている弁護士の飯田氏は、東電OL殺人事件に対しても「実名はどうか」と今現在も疑問を呈しつつ、佐野氏の一連の仕事に対しては一定の評価を示しています。
それにも増して彼が問題視しているのは、「セックス絡みとか単に面白い話題に飛びつくという興味本位な(一部マスメディアの)姿勢」であり、事件発覚当時も、その点でマスメディア各社に仲間の弁護士17人と共に公開質問状を出したのだといいます。
書かれる立場の人間にとっては実名での表記には非常に抵抗があることは充分理解できます。
しかし、ノンフィクション作家として、一人の人間により深く迫ろうとした場合、イニシアルなり匿名なりで書いてしまうと、その時点で、この世に確実に実在し、私たちと同じように息を吸い、息を吐いていた生身の人間としての“生の匂い”が失われてしまう感覚に襲われるに違いありません。
そしてその“生の匂い”こそが作家が表現したい本質であるとしたら、どうしても実名を使いたいというのは当然の欲求です。
少なくとも、「触らぬ神に祟りなし」的に初めから機械的に問題を処理している限り、本来見えるものも全く見えてこないとはいえるでしょう。
最後に、今回の記事の中で述べていらっしゃる佐野氏の言葉を抜粋しておきたいと思います。
作家というのは、たえずプライバシーの問題に心を砕きながら、どう表現するか闘う。変に取られても困るが、遺族から訴えられることも覚悟している。でもそれはぼくと当事者の問題であって、第三者に言われることではない。だから甘えていい、ということでもまったくない。