本日は、一週間前に見て感銘を受けた展覧会「没後30年 高島野十郎展」について書きます。本展については、鑑賞してきた翌日の18日、興奮が残る中で書きました。
今回はその続編で、高島野十郎(たかしま・やじゅうろう)の油彩技術に焦点を絞って書きます。
私が展覧会場へ足を運んだとき、必然的に注意が向かうのはマチエール(matiere〔フランス語〕:美術作品における材質的効果=広辞苑 絵肌)です。極論すれば、私は、「何が描いてあるのか」ではなく、「どのように描いてあるのか」にばかり注目してしまうのです。
会場を入ったすぐの壁に、野十郎の数少ない人物画が掛けられていました(※ 野十郎は人物画が不得意だったという解説を読みました)。いずれもが野十郎自身の自画像で、『りんごを手にした自画像』(大正12)『傷を負った自画像』(大正3)『絡子をかけたる自画像』(大正9)の3点です。
私は、それら作品の出来映えに言葉を失いました。今、野十郎の作品が持つ濃厚なマチエールを思い浮かべています。本物の油彩画だけが持つ、油分をたっぷりと含んだ粘っこい油絵具がカンヴァスにしっかりとくっついている様子です。
それにしても不思議な気分になってしまいます。野十郎が卒業したのは東京帝国大学農学部水産学科です。東京美術学校ではありません。であるのに、なぜ、あれほどまでに濃密なマチエールを獲得できたのでしょうか。聞けば、野十郎はほとんど独学で絵画技法を習得したといいます。
しかし、独学であったからこそ、自分のものにできたマチエールであったのかもしれません。
同展の会場に、野十郎の手紙が展示されていることは前回取り上げた際に書きました。その中で野十郎は、「世の画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進です」と宣言しています。野十郎が絵の制作に励んでいた時代の日本画壇は、抽象表現主義を善しとする風潮に覆われていました。
「伝統的な絵画表現を壊すことこそが新しい絵画の創造だ」とばかりに、本来は慎重に扱うべき油絵具を粗末に扱い、手仕事としての絵画表現をことごとく否定する絵画表現です。そんな風潮の中、真っ向からそれに逆らったのが野十郎でした。それができたのは、専門の教育を受けていなかったからこそ、といえなくもありません。
今回の展覧会の図録に、非常に興味深い話が出ています。
修復家で東京藝術大学名誉教授、明治美術学会理事の歌田眞介(うただ・しんすけ)氏の寄稿文「野十郎の衝撃」です。その中で歌田氏は、絵画の修復家として野十郎の作品の修復に携わることで、野十郎の油彩技法の凄さを実感した書いています。
初めて野十郎の作品に接した歌田さんは、「素人っぽいなぁ」と思ったと正直に書いています。しかし、はじめに受けた印象が衝撃的なものへ変わるのに時間はかからなかったようです。
きっかけは、1986年に福岡県立美術館で開かれた「写実にかけた孤独の画境 高島野十郎展」のために施した修復作業です。その時に受けた体感により、歌田氏の野十郎像は、「昭和を代表する画家のひとり」へと大転換したのです。
ほとんど無名で、そのときまで野十郎の存在さえ知らなかった歌田氏の心をそこまで捉えたのは何でしょう。それは、野十郎の作品が持つマチエールの美しさ(=強さ)です。
これから書くことは、油絵具に触れたことのない人には馴染みの薄い話になるかと思います。
油絵具が何かといえば、顔料や染料を乾燥する油で練ったものです。今「乾燥」と書いたのは便宜上で、厳密にいえば、「固まる」と書くべきかもしれません。水彩絵具が文字どおり乾燥するのとはメカニズムがまるで異なり、油は化学反応を起こして固まる性質を持っています。
油絵具に用いられる油には、亜麻仁油(リンシード)やケシ(ポピー)、サフラワーなどがあります。また、同じリンシードでも、独自の製作行程を施すことで、リンシード・オイルに特有の黄変の弊害を押さえる特徴を持つ油もあります。
こうした、現代に続く油がこの世に生まれる以前、絵画はフレスコやテンペラによって描かれる時代が長く続きました。
野十郎は、4年ほどヨーロッパで絵の修行をしています。その間、ヨーロッパの美術館や教会で本物の絵に数多く接し、「油絵具の扱いはかくあるべし」と頭にたたき込んだのではないでしょうか。
同じ時代、同じようにヨーロッパで絵の修行をした日本人画家や画学生はいたはずですが、日本の美術学校で事前に専門教育を受けていたため、「新しいことはいいことだ」の精神が知らぬ間に刷り込まれ、本場の修行の成果を邪魔された可能性があります。その点、野十郎は刷り込みに邪魔されることなく、確信を持って絵の制作に励めたのでしょう。
油絵具がカンヴァスにしっかりと固着するのに必要なメディウムとしての油の使用を軽視する画家がいます。彼らにとっては、「それこそが芸術表現の良心」となり、それまであった伝統技法を頭から否定したように思われます。ただ、そのようにして制作された作品の多くは、作品に破滅的な現実をもたらします。その典型が、ターペンタイン(=テレビン)やペトロールなどの揮発性油の多用です。
揮発性油は、水彩画における水のように、蒸発してしまいます。そのため、揮発性油だけでさらさらに薄めてしまった油絵具は、もはやカンヴァスに固着するだけの油分が残らないことになります。カンヴァスにメディウム(=のり)をつけないで貼り付けるようなものです。
裸状態の油絵具はカンヴァスの表面で揮発性油までも蒸発によって失い、かろうじてカンヴァスにしがみついているだけの状態になってしまいます。
歌田氏のお話では、作品表面の埃や汚れを拭うための溶剤にも簡単に溶け、場合によっては水にさえ溶けてしまう作品があるといいます。描いてまだ数十年しか経っていない作品でさえもです。そうであるなら、そこにどんな芸術的価値のある絵が描かれていようとも、作品の魅力を保つのは困難になります。
歌田氏のお話の中に、野十郎が描いた『雨、法隆寺塔』(昭和40年頃)を巡る逸話があります。これも修復につながる話で、同作品は二度災難に遭ったということです。
一度目は盗難です。持ち去った不届き者は作品を縁の下に4年も放置してしまいます。湿度の高い悪環境に長い間置かれた作品が発見されたときは、表から裏から厚いカビに覆い尽くされるという、見るも無惨な状態であったそうです。
しかし、これこそが野十郎の執念と見るべきか、カビの下には野十郎によって塗り込まれた油分をたっぷりと含んだ油絵具が、カンヴァスにしっかりとしがみついていたのです。汚れやカビを取り除く溶剤にもビクともせずに耐え抜いた野十郎の『雨、法隆寺塔』は、描かれたときのままに蘇りました。
二度目の災難は2005年といいますからほんの一年前の夏のことです。今度は致命的とも思える火災です。
歌田氏によれば、「額縁は炭化し、画面の上半分は真黒く煤けていた」といいます。であるなら、そこにどんな名画が描かれていても、救いようがありません。が、救われたのです。これは奇跡です。
その作品は本展覧会にも展示されています。作品そのものは、二度も災難に遭ったことなど少しも感じさせず、野十郎その人がおそらくそうであったように、泰然と壁を飾っていました。
野十郎の絵画技法を語る上では「古典描法」といういい方ができますが、何をもって「古典」というかは難しいところです。
工業化の進歩によって現代のチューブに入った油絵具ができる以前(印象派登場以前)を、一応の古典と定義してみても、その描き方は画家それぞれです。同じ時代に同じ地域で絵を描いていても、おそらくは画家ごとに描き方は異なっていたように私には思えます。
一例を挙げるとすれば、私が敬愛してやまないレンブラント(1606~1669)です。レンブラントの技法について、以前本コーナーでも紹介したことのあるウジェーヌ・フロマンタン(1820~1876)の著書『昔の巨匠たち ベルギーとオランダの絵画』(白水社)から引用してみます。
(レンブラントの)画法については、油彩、素描、銅版、いずれも人とまったくちがっていた。作品は制作の手順からして謎であった。人びとは多少の不安をおぼえながらも称賛していた。あまりよく理解できないままに、レンブラントのあとに付いていった。殊に、仕事場では錬金術師の趣があった。画架にむかって、手にしているパレットはべとべとしていたにちがいないが、そんなパレットからごってりとした絵具の層を塗りかさねるかと思うと、まじり気のない精妙な色彩もあらわれるし、銅版の上にうつ向いているときは、いっさい原則を無視して彫りすすめる。(中略)レンブラントはオランダの画家でありながらオランダ的なところがどの画家にくらべても少ないこと、また、たしかに時代の人ではあるが、すっかり時代に属していたわけではけっしてないこと、この2点を忘れてはいけない。
フロマンタンに論じられているように、レンブラントが生きた時代、同じオランダで仕事をしていながら、レンブラントは誰とも違う絵を描いていたのです。そのレンブラントも、現代から見れば、「古典」とひとくくりに分類され、彼の技法も「古典技法」とひとまとめにして語られます。
私は、本日の冒頭で、絵を視るとき、その絵が持つマチエールに注目すると書きました。
マチエールとは、イコール、その画家の描法に関心が向かうということです。それを理解、あるいは自分で会得するためには、画材の研究が欠かせないということで、昔に『新版 油彩画の技術』(グザヴィエ・ド・ラングレ著/黒江光彦 訳/美術出版社)を買い求め、油ジミだらけになるほど読み返しました。ちなみに、同著の初版は1974年7月30日で、私が買い求めたのは1989年2月15日に発行となった10版です。
野十郎が生きた時代は、現代ほど海外の書物の日本語訳版は容易に手に入らなかったに相違ありません。それでも、独り画室にこもり、研究し、絵画制作に没頭したに違いありません。そんな野十郎の姿が想像できます。
野十郎の強い執念はカンヴァスに乗り移り、しっかりと固着した絵具の美しいマチエールによって、没後30年経った今、最近になって野十郎の存在に気がついた鑑賞者の眼をも魅了して止まないのです。