昨日の本コーナーでは、お染(そめ)という名の娘が登場する悲恋話について書きました。
同じ名の「お染」が出てくる話を書きます。こちらも、岡本綺堂(1872~1939)の本にあった話で、短い随筆に出てきます。
今は、新コロの茶番劇が繰り広げられていますが、131年前の明治23年(1890)の冬に日本である病が流行り出した、と綺堂は書いています。
それが、日本で初めて流行したインフルエンザです。翌年の春にかけて、感染が広がったようです。
茶番の新コロと違い、こちらはウイルスが実在しますから、日本でも本当の被害者がそれなりに出たでしょう。
綺堂が知る噂としては、横浜港に着岸したフランスの船がこの厄介な病を運んできた、というような話があったそうです。日本での流行のきっかけが何かはわかりませんけれど。
今に比べて疾病対策が整わず、その状況を伝える報道も頼りなかったでしょうから、人々は、わからない中で、不安に暮らしていただろうと想像できます。
それが東京周辺に限った話かどうか、綺堂の随筆を読む限りではわかりませんが、人々はインフルエンザとはいわなかったそうです。代わりに何といったかといえば、「お染風(そめかぜ)」です。
こんな風に聞きますと、恐ろしい病であっても、恐怖心が和らぎます。
どうしてそんな風な呼び名をつけたのか詮議すると、江戸時代にもそれとよく似た感冒が非常に流行したことがあり、そのときに、誰かが「お染」とつけたことが知られ、今度も同じ名を遣ったのではないか、とある老人が説明してくれたことを書いています。
昔の人は、お染と聞くと「久松」が自然に連想されるそうです。
1710年に大阪で実際に起きた心中が、お染と久松であったからです。お染は油屋の娘で、店で丁稚をする久松に恋したことで、心中する顛末となったそうです。
この事件が歌舞伎や浄瑠璃になったことで、当時の人々は、誰もがお染と久松を結び付けて考えることができたのでしょう。
インフルエンザをお染と呼ぶようになったことで、その感染を防ぐ迷信のような行為が流行ったそうです。それは、家の軒に、「久松留守」と書いた紙を貼ることです。
インフルエンザのお染に取りつかれないよう、久松は居ませんと居留守を使おうというわけです。
巷の流行りごとを嘲るような記事が新聞に載り、それが却って、人々の間に流行らす結果となったようです。
インフルエンザをお染風というのは最初の年限りで途絶え、以降は、今に続くインフルエンザと呼ぶようになります。
話の終わりに、綺堂は父の解釈を次のように書きます。
ハイカラの久松にとりつくにはやはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。
岡本 綺堂. 『岡本綺堂全集・242作品⇒1冊』 (Kindle の位置No.57209-57210). Kido Okamoto Complete works. Kindle 版.
その父が、明治35年(1902)にインフルエンザで亡くなっています。
何百年後の人々は、今の新コロ茶番劇をどのように振り返るでしょうか。
「ありもしないウイルスに世界中の人が右往左往したんだって。恐ろしい病を信じた人は大変な思いをしただろうけれど、真相をわかっている人にとっては、さぞ迷惑な話だったろうねぇ」と書いてくれる人もいるかもしれません。
いやいや、ほんとに迷惑していますよ。新コロなんてウイルスはありもしないのですから。
未来を生きる皆さん、馬鹿げた世界に生きざるを得ない昔の人間にどうぞ同情してください。