前々回の本コーナーでは、アルフレッド・ヒッチコック(1899~1980)監督の『見知らぬ乗客』(1951)について書きました。
それを見たことで気になることがありました。主演俳優のひとりが、同じヒッチコック作品に出ており、その作品は私も見たことがあるにも拘わらず、『見知らぬ_』でテニスプレーヤーを演じた俳優が、別のヒッチコック作品で演じていたことに気がつかなかったことです。
そこで、同じ俳優が出演していたヒッチコックの『ロープ』で確認しました。
本作は、有名なヒッチコック作品ですので、保存版としてBDに録画してあります。しかし、それとは別に、今年の2月10日(水)にNHK BSプレミアムの「シネマ」枠で放送され分をHDDに録画してあったことに気がついたため、HDDで確認しました。
この作品は、『見知らぬ_』の3年前、日本の年号でいえば、先の大戦が終わって3年後、昭和23年に米国で公開されています。
本作が日本で公開されたのは前回の東京五輪の2年前の1962年です。ということは、米国での公開から14年後です。日本公開が遅れた理由は知りません。
本作は、パトリック・ハミルトンの舞台劇を映画化したものですDが、1924年に米国で実際に起きた事件がもとになっているそうです。
スタンダードサイズの作品で、ヒッチコック作品としては初めてのカラー作品になります。監督は必ず、自分の姿を一場面登場させることで知られますが、本作に監督の姿は写っていない、はずです。私が確認した限りでは。
もとが舞台劇ですから、場面がほとんど変わりません。それを逆手に取り、始まってから終わるまで、ノーカットに見せる作りになっています。
そうはいっても、撮影用のフィルムには限りがあります。撮影フィルムのロール1本で撮影できるのは、10分から15分であるそうです。それが本作は、80分の作品に仕上がっています。1台のカメラとフィルムで前篇をノーカットで撮影するのは不可能です。
そこで、採られた技法は、フィルムが切れそうになると、カメラをある部分に近づき、次のカットは、その部分から離れるようにして、あたかも連続して撮影したかのように見せることをしています。
ある場面では、主人公の背中にカメラが近づき、画面が暗くなります。フィルムを入れ替えたカメラで、背中に近づいて暗くなったところから撮影を始め、カメラを背中から引いて、部屋の中で演技する役者を撮影する、といったやり方を使っています。
同じ方法で、扉に近づいたり離れたりすることもしています。
ヒッチコックはオープニングから凝ります。本作では、ニューヨークの街の一画を、少し高いところから俯瞰するように捉えています。
やがて、タイトルが終わってカメラは、あるアパートの壁面を大写しにします。壁面は一面が窓ですが、なぜか、日中なのに、窓にはカーテンが引かれています。
それを見る観客は、不安な気持ちになるはずです。
間髪置かずに、部屋の中から若い男の断末魔が聞こえます。
本作の舞台である、カーテンが引かれたアパートの一室では、今まさに、人殺しが行われています。
部屋の中にいるのは若い男が3人。真ん中の男の首には白いロープが巻かれ、それで首を絞めているのが、『見知らぬ_』で、好青年のテニスプレーヤーを演じたファーリー・グレンジャー(1925~2011)なのでした。
このように、本作は犯人ふたりが人を殺す場面から始まります。犯人はグレンジャー演じるフィリップと、学生時代の仲間、ブランドンです。ふたりに殺されたデイヴィッドも、彼らの仲間でした。
日中に起こした犯罪であるため、死体になったデイヴィッドをアパートの外へ運び出せません。そこでふたりは、部屋の中にあるチェストの中へ遺体を一時保管します。
チェストと書いてどんなものか想像できない人は、大人の男がひとり横になれるぐらい空間がある木製の箱のようなものを思い描いてください。
箱には頑丈な脚が付いており、テーブルになるくらいの高さです。また、箱の上面には蓋が付いています。
その中へ、死んだ仲間の死体を入れたままにして、ふたりはその部屋で、パーティーを催すのです。
招待したのは、デイヴィッドの両親でしたが、母親は風邪をひいたとかで、母の姉が代わりにやって来ます。ほかに、デイヴィッドのフィアンセの女性、それから、彼らが中学時代の恩師であるカデル先生を招待しています。
遺体を隠すだけなら、誰も部屋に呼ばなければいいものを、わざわざ人を殺人現場にいれるのですから、主犯格のブランドンは、無駄に自己顕示欲が強い男であることがわかります。
一方の、グレンジャー演じるフィリップは、ピアニスト志望で、ナイーブな性格です。部屋にはピアノが置いてあり、パーティの参加者にピアノ演奏を披露したりもします。
このように、『ロープ』で犯人役の一人を演じた俳優が、『見知らぬ_』で主演しながら、それに気がつかなかったのですから、不思議といえば不思議です。
しかし、今また、それを注意せず、『ロープ』を見たあとに『見知らぬ_』をぼんやり見たら、再び、同じ俳優が演じていることに気がつかないかもしれません。
もちろん、同じ俳優が演じているわけですから、顔かたちも同じです。気がつかないわけがありません。
ところが、『ロープ』でグレンジャーが演じたフィリップという青年は、自分の犯行が、パーティーの参加者、中でも、恩師であるカデル先生に気づかれることを恐れ、作品のはじめから終わりまで、おどおどした表情で演じています。
一方の『見知らぬ_』では、快活なテニスプレーヤーを演じており、同じ俳優であっても、両作では顔つきがまるで異なります。
それが、両作品に出演しながら、気がつかなかった理由である、と自分なりに納得できました。いい方を変えれば、それだけ、グレンジャーという俳優の演技が見事いうことになりましょう。
カデル先生を演じるのは、ヒッチコック作品においては常連で、私も好きな俳優のジェームズ・スチュアート(1908~1997)です。本作でも都会的で軽妙な演技を披露してくれています。
カデル先生は、彼らの部屋に入ったときから異変のようなものを感じ取り、遠回しに彼らに質問し、異変の理由を探ります。
無駄なものは何も描かず、会話だけで、男二人を追いつめていきます。
それが殺人犯であっても、それを見る観客は、犯人の心理になって作品を見たりします。それだから、カデル先生にじりじりと追い込まれ、ついには、部屋の壁を背中に、息をするのも苦しく感じるような心境になったりするでしょう。
独りよがりのブランドンは最後までふてぶてしく振る舞おうとしますが、グレンジャー演じるフィリップは、途中でカデル先生の追及に負け、破綻していきます。
本作を楽しく見たいのであれば、犯人であるかつての教え子を追い詰めるカデル先生の心理で見ることです。