本日も、本コーナーは思いつきの独り語り「気まぐれトーク」の形式にて更新をしています。いつもは夜にトークするところ、昨日に続いて今日も朝にトークを行っています。今日は「天皇誕生日」の祝日なので、遅くまで眠っているという人も多いかもしれません。私は曜日や祝日に関係なく、今日も午前4時すぎに起きました。
本日分の内容につきましては、音声ファイルでご確認下さい。で、そうされない場合は、下にトークを要約して書き起こしていますので、それをお読みになって、トークのだいたいの流れをご想像下さい。
なお、音声ファイルはmp3方式にて紹介しています。再生箇所は前後に自由に移動させることができる、と思いますので、下の書き起こしで見当をつけ、聴いてみたい部分だけを“つまみ聴き”するようなこともできます。ご自由にお楽しみ下さい(^ー^)ノ
トークを要約した書き起こし
祝日の今日も、私はほかの何でもない日と同じように、決まった時刻に起きた。今日、関東南部は朝から晴れ上がっている。しかし、当地では北西の風が強く吹いている。気温はそれほど下がっていないので、家の中にいる分には寒くないが、一歩外に出ると、その風で体感的には低く感じる。
というわけで、こんな日は家の中で“きまぐれトーク”をするに限る、と考えたわけでもないが、朝からトークをしている。昨日も朝にトークをしているが、今日は昨日より20分ぐらい早いスタートで、朝飯前に済ませてしまおうと思い、事実その通りに事が運んだ。
今回もジョン・レノンの暗殺事件について話すことにする。私の話し方はグダグダで、うまく話せれば1回で済むところ、これで3回目になる。しかも、今回のトークでも、話したいことの半分程度しか話せなかった。
ジョン・レノンが凶弾に斃(たお)れてこの世を去ったのは1980年12月8日。今年で30年になる。そんな節目の命日の前日である今月7日、衛星デジタル放送のBSジャパンで特別番組が放送された。事件の真相があるならと私なりに興味を持ち、一連の下手なトークにつながっている。
この話を取り上げた前回のトークでは、犯人とされ、また、ほとんどの人がこの男の犯行であると疑わないマーク・チャップマンを巡る3つの謎について少し話した。
今回は、事件が起きた1980年12月8日のジョンとチャップマンの行動を追ってみようと考えている。
ジョンが命を落とすことになるその日、ニューヨークは12月としては暖かかった。午前10時に18℃まの気温を記録している。
ジョンが妻のオノ・ヨーコ、ひとり息子のショーン(事件当時は5歳か)と暮らすニューヨークのマンハッタン地区は、緯度が青森県と同じぐらい。地理的条件が違えば気候も違い、雪はそれほど多くないらしい。
冬場は冷え込み、日中でもマイナス10~15℃ぐらいまで下がる、とネットの事典ウィキペディアにある。そんな寒いはずの時期に、午前10時の段階でプラス18℃というのだから、とんでもなく暖かだったことになろう。
ジョン一家が暮らしていたのは、セントラル・パークの西側に建つ「ダコタ・ハウス」という高級アパート。日本風にいえば「マンション」だが、ほかの国ではこういう住居が「アパート」になるのか。
事件当日も、ジョンはスケジュールが混んでいる。午前10時ぐらいから、自宅にあるスタジオで、『ローリング・ストーン』誌来月号のための写真撮影が行われた。撮影は昼頃には終了。
この年には、5年ぶりのニューアルバムであり、遺作となってしまった『ダブル・ファンタジー』が発売されている。
それ以前の5年間は、自分たち夫婦の間に生まれた息子の育児に専念していた、というようないわれ方をされ、音楽活動を停止していた。これも一面の真実ではあっただろう。が、それとは別の重い事情もあり、その事情こそが自身への悲劇を呼び寄せてしまったのかもしれない、と私は考えたりしてしまう。
一方、殺人犯とされているチャップマンは、ジョンたちが暮らすダコタ・ハウスから3キロほど離れたところにあるシェラトン・センターホテルの2730号室にいた。起きたのは、ジョンたちの写真撮影が始まって少し経った午前10時30分頃。その部屋から、チャップマンは歩いてダコタ・ハウスに向かう。
手には、ジョンの5年ぶりのニュー・アルバムを持っている。チャップマンは「ジョンの熱狂的なファンだった」とされているが、これは事実ではなく、彼はジョンやビートルズのレコードは1枚も持っていなかったとされる。
しかし、ジョン宅を目指すチャップマンは、なぜかジョンのアルバムを持参することは忘れなかった。途中、あることを思いつき、重要なアイテムを買っている。彼がダコタ・ハウスに着いたのは昼過ぎ。ということは、写真撮影が終わった頃。
午後1時ぐらいからは、同じダコタ・ハウス内でラジオ番組の取材があった。その模様はテープで録音され、質問に答えるおそらく最後の肉声が番組でも紹介されている。当時ジョンは40歳。であれば、まだまだ自分の死は考えない歳だと思うが、自分の人生の終わりを意識させる次のような言葉を残している。
僕らは生きるか死ぬかしかないんだ。死ぬなら死と対処しなければならないし、生きていくなら生と対処しなければならないんだ。僕の仕事は、死んで埋葬されるまで終わらないだろうし、それがずっと先であって欲しいと願っている。
ジョン・レノンの暗殺犯とされているチャップマンは、ずっと暗殺の機会を窺っていたのか、昼過ぎにダコタ・ハウス前に着いてから、ずっとそこで時間を過ごしている。その場には、同じようにジョンの到着を待つ人が何人かいたのだろう。
そのひとりに、アマチュアカメラマンのポール・ゴレシェという男がいた。彼は近くの街に住み、ダコタ・ハウスに通ってきてはジョンやジョンを訪ねてくる人々、アパートの住人などの写真を撮り、それを売って生計を立てていたそうである。
そんな彼らの前に、その日初めて、ジョンとヨーコ夫妻が現れた。ジョンはラジオ番組の取材が終わり、次の仕事場である車で10分ほど離れたところにあるレコーディングスタジオへ向かう途中のことである。
時刻は午後6時頃。その時、マーク・チャップマンがどのような心境だったかわからないが、ジョンに近づき、手に持っていたニュー・アルバム『ダブル・ファンタジー』を差し出し、サインしてもらっている。そのときに残されたアルバムには、「1980」と普段は入れない年が入っていた。
その場面を近くにいて一緒にジョンの出現を待っていたアマチュアカメラマンのポール・ゴレシェが写真に撮った。約5時間後に暗殺されるジョンと、ジョンを暗殺したとされているチャップマンがひとつのフレームの中に残った。
自分たちのことを写真に撮ったことに気がついたチャップマンは、ゴレシェに「写真をすぐ売ってくれ」という。ゴレシェはすぐには無理だと断ったが、翌日には自分は拘置所にいることを悟っていたチャップマンはその日のうちにその写真を見たかったようだが、最後は諦めて、「翌日に必ず売ってくれ」といってふたりは別れている。
その間、ジョンは妻のヨーコと自宅から車で10分ほど離れたところにあったレコーディングスタジオで仕事をし、それが午後10時30分頃に終了。そのあと、いつもであればレストランに寄って食事をしたりするところ、その日はそのまま真っ直ぐ自宅へ戻っている。ふたりが自宅前に着いたのは午後10時50分頃。
ここに登場する車だが、ジョンが自分で車を運転できたかどうか私は知らないが、テレビの映像などを見ても、車の後部座席に乗っている。それがタクシーなのか、あるいは運転手付きの自分の車なのかはわからない。また、その車から自宅前で降りたのか、あるいは、アパートに車庫があり、そこで車から降りてアパートの入り口へとやって来たのかも私はわからない。
一日の仕事を終えたジョンとヨーコは、歩いてダコタ・ハウスの入り口の奥に消えて行きかけたとき、ジョンの右背後からマーク・チャップマンがジョン目がけて銃を5発発砲し、うち4発が命中した。とされているが、命中した弾がチャップマンの銃から発砲されたものだったのか?! ジョンはその場に崩れ落ち、愛する夫の異変に驚いたヨーコがジョンの傍らでどのような声を発していただろうか。
チャップマンが暗殺事件の単独犯であったとされているが、発砲してジョンがその場に倒れ、周りが大騒ぎになっている中、チャップマンはそこに居続け、静かにJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいた。まるで、警察官の到着を待って時間潰ししているかのように。
事件の直後、チャップマンを取り調べた当時のニューヨーク市警のアーサー・オコナー刑事が、その時のチャップマンの印象を次のように語ったそうだ。
チャップマンが誰かに利用されたという可能性があります。私は事件のあった夜、じっくり彼を観察しました。彼はまるでプログラムされているようでした。
ジョン・レノン暗殺事件についてこれで3回話したが、まだ真相の話に辿り着けずにいる。でも、ま、焦って話すこともなく、悠々と時間をかけて話そうと腹を決めた。今年中に話し終わるだろうか。