Amazonは、電子書籍を扱うKindle本ストアが8周年を迎えたことで、ポイントを50%も大盤振る舞いするキャンペーンをしました(5日で終了)。このところの本コーナーは、これを利用して購入した村上春樹(1949~)作品を続けて紹介してきました。
その続きで今回も村上作品、といきたいところですが、さすがに食傷気味となり、異なる作品に接したくなりました。そこで、Amazonのキャンペーン終了間際に、松本清張(1909~1992)の対象作品を購入しました。
清張の電子書籍版は、時代小説と実録ものを除いてほとんど読んでいまして、まだ読んでいなかった次の2作品を選びました。
波の塔(上)(下)2巻 | 事故 |
まずは『事故』を読み、また村上作品に戻ったあと、『波の塔』(1960)の上下巻を読む予定です。
『事故』は、1962年の年末に発売された『週刊文春』年末年始合併号から1963年4月14日号まで連載された作品です。
本書には、ほぼ同じ分量の作品『熱い空気』も収録されています。これも『週刊文春』の1963年4月22日号から7月8日号まで連載されています。ということで、前年末から7月にかけ、清張は1号の間も置かずに原稿を書き続けたことになります。
同じ作家でも、村上にはできないことでしょう。村上は締め切りに追われる連載はしない主義で、実践しているそうですから。一方の清張は、作家生活の間中、締め切りに追われる人生を送っています。
清張について書いたネットの事典ウィキペディアを見ますと、締め切りに迫られて追いつめられた清張のエピソードがあります。その一つが『波の塔』のときのことで、その時の清張の思いが次のように書かれています。
清張は、連載を頼まれ、締切りが切迫してきたが、まだ筋ができていない時、連載予告上の必要に迫られ、「『波の塔』だとか、『水の炎』だとかいうような題を出しておけば、内容が推理小説であろうが、ロマン小説であろうがあるいは時代小説であろうが、あと一ヶ月のほんとうの締切りまで時間がかせげるわけであります」と、抽象的な題名をまず出しておいた結果であると述べている
ウィキペディア「松本清張」:趣味・プライベート
作品を書き上げてから発表する書下ろしと違い、連載の場合は、四六時中締め切りという“悪夢”に追われるようにして書きつなぎます。新聞であれば毎日、週刊誌は週単位、月刊紙は月単位です。
昔、漫画家、手塚治虫(1928~1989)のドキュメンタリーをNHKで見たのを思い出します。締め切りが迫っているのに原稿が仕上がらず、真夜中、手塚が布団の上にうつ伏せになり、電話で編集者にもう少し待ってくれるよう頼むシーンがありました。
漫画の神様といわれた手塚でも、締め切りにはこれほど苦しめられるものなのかと考えさせられたものです。
横溝正史(1902~1981)のエッセイにも、締め切りのきつさが書かれていました。横溝は、1週間分が毎週求められる週刊誌への連載は、毎日の新聞よりもきつい、と書いています。
それはそうでしょう。週単位で山場を持たせ、次週へ期待を持たせるようにもしなければなりません。しかも、毎日の新聞に比べて書かなければならない量が多くなり、それが毎週週単位で迫るため、心が休まる時間がなさそうです。
そのつらさをこなせてこそ職業作家といえます。清張は人気作家でしたから、いくつもの媒体に並行して連載するようなことをしています。
こんな風に、清張は精力的に原稿を書きましたが、人間ですから、ときには作家自身の満足がいかない作品もあるでしょう。
残念ながら、今回取り上げる『事故』と『熱い空気』は、清張の快心作ではなかった印象です。
どちらの作品も、出来事の裏には、満たされない30代の女性の心理が働きます。
『事故』は過去に5回テレビドラマ化されており、私は再放送された2012年版を見たことがあります。これは、あまり出来が良くなかった印象です。ともあれ、そんなわけで、読む前から話の筋は頭に入っていました。
始まってすぐ、東京都内のある重役の家に、深夜、運送会社の大型トラックが突っ込む事故が起きます。事故が起きた家に暮らす夫婦は、互いに浮気相手を持っており、興信所の女職員が内偵をしていたのでした。
一方の『熱い空気』も、テレビドラマが4本作られています。こちらのドラマは見たことがありません。
殺人事件は起きず、大学教授をする夫と妻の若夫婦の家に家政婦として派遣された女の、ねっとりとした復讐心が描かれます。女には身寄りがなく、幸せそうに見える家が妬ましく思えます。
外から見ている分には申し分なさそうな家庭も、中に入ってみれば、夫婦や子供、姑が問題を抱えているのがわかります。家政婦の女は、かいがいしく仕事をする振りをしながら、家族のさらなる破滅を望みます。
『熱い空気』は仕掛けがないため、連載には苦しまなかったでしょうが、『事故』は2人が死ぬ事件が起き、そのトリックを描かなければなりません。それを実現するには無理に無理を重ねる必要があり、終わりのほうでは収集がつかなくなる印象です。
これを、原作通りにドラマ化すれば、粗ばかりが目立ちかねません。そうしたこともあって、私が見たドラマの出来の悪さにつながったのでしょう。
とかく、純文学の作家はお高く留まり、清張のような大衆小説の作家を低く見る傾向を強く持ちます。そうした意識があることを清張は嫌というほど感じていたでしょう。それでも作品を量産し、作家人生を全うしています。
村上も純文学の作家ではありますが、日本の文壇には馴染もうとはしていません。それでいて、大衆文学の作品を書こうとはしません。
村上のこの態度はまるで、J・D・サリンジャー(1919~2010)が書いた『ライ麦畑でつかまえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1951)の主人公で語り手の16歳の少年、ホールデン・コールフィールドそのものとはいえなくもないでしょう。
私は『キャッチャー_』は読んだことがありません。
この作品について村上と柴田元幸氏が語り尽くす『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(2003)を今読んでおり、そこでこれまでに語られたことでホールデンのことを知り、ふと、村上と近いことを感じたのです。
ホールデンは成熟した大人の社会に自分が溶け込むことを拒んでいるようです。であれば、日本の純文学に集まる大人の作家たちの集まりから離れたところに立ち、それでいて、自分を純文学のれっきとした作家であることを強く感じる村上は、ホールデンの心情に近いのではなかろうか、と私は考えるのです。村上は、大衆作家を頭ごなしに見下しているでしょう。
読者は自由です。純文学作品と大衆小説の間に垣根が設けられようと、垣根など平気で跳び越え、その時の気分で、自由に行き来します。「権威付けなんて、当事者どうして勝手にやっていろぃ! 俺達一般ピープルにゃあ、一切関係ねぇ!」と。
村上が音楽について書いた文章を読みますと、村上は音楽にも窮屈な考えを持つことがよくわかります。
村上はブルース・スプリングスティーン(1949~ ※村上と生まれたのが同じ年ですね)にご執心のようですから、このミュージシャンについて、忌憚のない私の考えを書くことも考えましょう。
村上は音楽の専門家ではなく、趣味で愉しむのですから、もっと自由であればいいのに、とお節介ながら思います。それなのに、村上は、ジャズやらクラシック音楽やら、多くの人が知らないであろう曲目にことさら注目し、自分を通ぶるのがお好きのようです。
ひと言でいえば、プライドが高いのですかねぇ。それでは、『キャッチャー_』のホールデンのように、さぞ、生きづらいでしょう。
ホールデンの心情を理解するため、紆余曲折の末に世に出た村上訳で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでみましょうかね。