このところは、村上春樹の作品に続けて接しています。今回は、読んだばかりの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を取り上げます。
本作も、Amazonの電子書籍Kindle本ストアが8周年を記念し、5日まで、該当する電子書籍に50%のポイントを付与するキャンペーンの一環で手に入れました。
ほかにも次の村上本を3冊追加しました。
いずれも、全体の10%程度を読めるサンプル版で中身を確認し、面白そうなので購入を決めています。
村上は小説の執筆で疲れた頭を揉み解すように(?)、英語で書かれた原文の小説を翻訳することを長年続けているそうです。その翻訳をする意味などについて、村上より少し年下で、東大で米文学を教える専門の傍ら、翻訳業をされている柴田元幸氏らと対談したものをまとめたのが上の2冊になります。
もう1冊は、村上がかつて住んだり旅した土地について書いた紀行文です。
気取らずに語ったり書いたりしていますので、村上の小説を読むと起こる気持ちのひっかりのようなことがなく、読み進めることができます。1冊目の『翻訳夜話』は半分ほど読み終わりました。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は2013年に出た長編小説です。短編集の『女のいない男たち』(2014)を読んで本コーナーで取り上げましたが、それとほぼ同じ頃に書かれた作品になります。
村上の『ノルウェイの森』(1987)は当時ですから、上下2巻の紙の書籍で読みました。それ以外の村上の長編は本作が2作目です。
本作が出た7年前、新聞の広告で知りましたが、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という作品名が奇妙に思えました。読んでみると、内容をそのまま作品名にしているのがわかります。
多崎つくるというのは主人公の名前です。「つくる」は「作」ですが、名前の由来を書いた部分だけ「作」で、ほかは平仮名の「つくる」で通しています。
名付けたのはつくるの父で、「作」にするか「創」にするかで悩み、「作」にしたとあります。つくるは「創」では荷が重く感じただろうから、と「作」にしてくれたことに安堵しています。
つくるの父は苦労して不動産会社を作り、事業を成功させています。つくるは父と良い関係を築けずにいます。作家は実人生を作品の登場人物に反映することが多く、村上も父と良好な関係ではなかったと記憶します。
つくるだけが「色彩を持たない」というのは、苗字に色がついていないだけのことです。高校時代に強いつながりを持った友人、男が2人、女が2人には、赤(赤松慶)、青(青海悦夫)、白(白根柚木)、黒(黒埜恵理)と苗字に色がついています。
そのあとの話に登場する男2人も、灰(灰田文紹)、緑(緑川)で色がついています。
このあたりはいかにも作り話です。実生活においては、こんなことは気を病むことではなく、友人たちの中で自分の苗字にだけ色がなくても、疎外感を持つことはまずないですね。
作り話ということでは、つくるを含む5人が強い絆で結ばれているというのも、安物の青春ドラマのようで、個人的には受けつけにくいです。
あるいは、自分が友達のいない人間だからそう感じるだけで、青春時代に同じような経験をした人なら、「わかる、わかる」となるのでしょうか。
私は子供の頃から他者と交わることを避けてきました。幼い頃、近所の友人が家に遊びに来るのを面倒に感じ、周りに誰も住んでいない離れ小島のようなところに家があったらいいのに、と思ったりもしたことがあったほどです。
話は、つくるが高校生の頃、大学生の頃、そして36歳になった今を行き来して進みます。
36歳のつくるには、2歳年上のガールフレンド、木元沙羅がいます。つくるにしても沙羅にしてもスマートすぎます。まるで欠点がない恋人同士のようで、典型的なトレンディドラマの男女のようです。
2人の服装は洗練されており、会う場所も決まってお洒落な店。そこで注文する飲み物や料理もいかにもといった感じです。
『翻訳夜話』か何かに書かれていたのだと思いますが、村上は大学では演劇を学び、映画作りに関心を持っていたそうです。それだから、学校の勉強はせず、映画ばかり見ていたということです。
村上が短編で、日本のポピュラー音楽を批判的に書いた場面を思い出します。歌詞を聴いていると、安っぽいドラマの台詞ように聴こえ、耐えられずに聴くのを止めてしまう、といった書き方でした。
皮肉なことに、本作に登場する人物の会話が、村上がおそらく蔑む安直ドラマの会話に思える部分が少なくないように感じます。
たとえば、つくると羅沙が電話で話す場面です。
「私もあなたのことがとても好きよ。会うたびに少しずつ心を引かれていく」と沙羅は言った。そして文章に余白を設けるように、少しだけ間を置いた。「でも今は朝の四時前だし、鳥だっまだ目覚めていない。私の頭もまともに回転しているとは言えない。だからあと三日だけ待ってくれる?」
「いいよ。でも三日しか待て ない」とつくるは言った。「それがたぶん限度かもしれない。だからこんな時間に君に電話をかけた」
「三日で十分よ、つくるくん。工期はきちんと守るから。水曜日の夕方に会いましょう」
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.4281-4286). 文藝春秋. Kindle 版.
「工期」というのは、つくるが鉄道の駅を造る仕事をしていることにひっかけています。
それにしても、私には安っぽいトレンディドラマのように思えて仕方がないです。結構切実な場面のはずなのですが。つくるは羅沙に、「ああ、よしよし」と子供扱いされています(?)よね。
トレンディドラマは、日本がバブル経済だった1990年前後に全盛期を迎えたもので、本作が出た2013年からすれば遠い昔の感覚なのですが。
つくるの特徴を一言でいえば、執着心が皆無、です。それは信じられないほどです。生まれて初めての外国旅行にフィンランドへ行くというのに、カメラも持ちません。
今だったら、スマートフォン(スマホ)のカメラ機能が優秀だそうですから、カメラに特別関心がない人には不必要かもしれませんが。7年前はスマホはまだ登場していなかった(?)のでしょうか。
ともあれ、カメラを持参しない理由をつくるは次のように考えていると書いています。
カメラさえ持たなかった。写真が何の役に立つだろう? 彼が求めているのは生身の人間であり、生の言葉なのだ。
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.3031-3032). 文藝春秋. Kindle 版.
これは村上自身の考えでしょう。おそらくは、村上はカメラで写真を撮ることに完全にといえるほど関心がないかもしれません。それよりも、人間が生身で会い、言葉を交わすのを何より大事に考えている人間でしょうから。
それだから、作品でも、不必要に思えるほど、人と人を交わらせる書き方をします。
たとえば、フィンランドに着いた場面も、話の展開を急ぐ作家であれば、ホテルまでの道中は省きます。話に必要なことだけ書けばいいからです。村上は、タクシーで移動する場面も喜んで書きます。つくるがタクシーを降りる時、ドライバーにどれくらいチップをはずむべき悩んだりすることまで。
同じことは、ホテルで旅行会社の女性に現地の説明を聴いたあとの場面にもいえます。大抵の作品であれば、用事が済めば次の場面にさっさと移ります。村上は簡単に移ることはしません。それではもったいないように感じるからでしょうか。
彼女が帰ったあと、つくるは夕暮れが迫る、といっても、北欧の夏は白夜が長く、一般的な夜の時間になっても明るいのですが。
つくるは初めての国であるのに物おじせずに街中へ繰り出し、地元の人しかいないような食堂に入り、周りの賑わいを感じながら、独りで食事を摂る場面を長々と書きます。このあたりにこそ、村上の長編作品の持ち味があるといえましょうか。
村上に限りませんが、実生活で、小説の中の人物たちのように、辻褄の合った話を淀みなく話すことはありません。人との付き合いにしても、文章にしたら支離滅裂のようなことばかりです。
そんな現実論をいったら作り物の小説など書いていられない、といわれそうです。小説が作りものであることはわかっています。それでも、登場人物があまりにも都合よい考えを持ち、行動する様子を文章で読まされますと、村上さんお得意の「やれやれ」といった気分になるのも偽らざる気持ちです。
フィンランドに住む友人を16年ぶりにいきなり訪ね、あんな風に互いを理解し、思いのたけを全て淀みなく口にできるものだろうか、と考えてしまう自分がいます。
それもこれもひっくるめて村上作品の魅力といわれれば返す言葉もありません。魅力を薄めるような読み方を私がしてしまったことになりましょう。
村上の作品を少し批判的に書いてしまったように思わないでもありませんが、このところは村上本を続けて購入し、ささやかながら、村上の印税収入に協力しています。それに免じて大目に見てくれると助かります。
村上の翻訳についての対談集や紀行文集を読み終わったら、また、本コーナーで取り上げるかもしれません。