Amazonの電子書籍版で、江戸川乱歩と村上春樹の短編を交互に読んでいます。
前回の本コーナーでは、村上の短編集から『シェエラザード』を取り上げました。
そのあとまた乱歩に戻り、全集に収められた『湖畔亭事件』を読みました。乱歩が本作を『サンデー毎日』に連載したのは1926(大正15|昭和元)年の1月から5月です。
時代が違っても、発表された作品は作者の気風と共に、同じ遡上に載せることができます。村上の短編のあとに本作を読みますと、今更ながらに、乱歩が自分の偏った性的傾向も隠さずに書いていたことが確認できます。
本作の粗筋を追うことはしませんが、山上にある湖畔に面した宿で5年前に起き、すでに警察が解決したとされている事件に関わった「私」が、読者に事件の内幕を話す形式を採っています。
長い打ち明け話に入る前、「私」は次のように話し始めます。
さて本題に入るに先だって、私は一応、私自身の世の常ならぬ性癖について、又私自身「レンズ狂」と呼んでいる所の、一つの道楽について、お話して置かねばなりません。
江戸川 乱歩. 【江戸川乱歩作品集・107作品・原作図表33枚つき】 (Kindle の位置No.95510-95513). Ranpo Edogawa works. Kindle 版.
乱歩は作品の中でこう書くだけでなく、実際にもレンズが好きな人であったようです。カメラも趣味にしており、当時では珍しいでしょう。8ミリ映画よりも前(?)の動画撮影機で、家族や友人たちを撮影した映像が残っています。
作品の中の「私」には、乱歩の実像が二重写しになっているのではないか、と思ったりします。
「私」は子供の頃から病的に近い引っ込み思案で、近所の友達たちと遊ぶよりも、独りで部屋に籠り、独り遊びを好んだ、というように本作で書いています。
部屋には玩具を並べ、玩具がまるで生き物のように、玩具が発するであろう言葉を自分で発し、それを受けて自分が話すというようなことを、飽かずにします。
乱歩の諸作品には、この情景そのままの場面が登場し、あるときは、深夜、鍵を閉ざした土蔵の重い扉の向こうから、家の若主人といるはずのない若い女の声の会話が聞こえてきたりするといったあんばいです。
現実の乱歩も暗い部屋を好み、子供の頃は、暗い押し入れの中で幻燈を映写して楽しんだことがあるそうです。度重なる引っ越し遍歴の末、終の棲家とした東京・池袋に建つ家の土蔵を執筆の場としたのは、乱歩の首尾一貫した嗜好の表れといえましょう。
どこまでが実像の乱歩で、どこからが作品世界か境があやふやになりますが、本作の「私」は、壊れた幻灯機からレンズだけが残します。そのレンズを通る光に魅了されたからです。
学校へも行かずに布団の中で過ごし彼の眼に、雨戸の隙間から射し込む光が見えます。
想像しますに、それは、自分が大きな暗箱に入ったような錯覚を生むでしょう。
思い出すのは、今ではよく知られるようになったオランダのデルフトに生きた画家ヨハネス・フェルメールです(※フェルメールは、生涯、この街から一歩も離れることがなかったそうですね)。彼が絵画の制作をした時代、カメラ・オブスキュラという今のカメラの原型となるようなものがありました。
それをフェルメールが絵画の制作に実際に使用したかしないかには議論がありますが、レンズを通した外光が、暗箱に仕掛けたすりガラスに結ぶ画像に、フェルメールが歓喜したであろうことに異論をはさむ人は少ないでしょう。
乱歩には、レンズ狂のほかに、本人が「いまわしい病癖」と書く嗜好がありました。それは、他人が独りでいるときだけに見せる行為を覗き見る行為です。その欲求を満たすのに、レンズと鏡の道楽は大いに役立つのでした。
本作の「私」は、自分の部屋と女中の部屋をつなぐ筒を作り、鏡とレンズを組み合わせ、部屋に独りでいる女中の行為を盗み見たことを書いています。現実の乱歩が同じことをしたかどうかはわかりません。
「私」が持ち、そして、本作を書く乱歩自身もそれに極めて近い傾向を持つであろうことを読者に示したのち、本作の事件の舞台となる湖畔荘の話が始まります。
「私」は神経を病み、静養のため、避暑も兼ねて山荘で長逗留するのでした。
宿にいても性質は変わらず、ほかの宿の客のように、付近を散歩するようなことには興味を持てません。結果的に、都にいるときと同じように、部屋に引きこもるだけになってしまいます。
その退屈凌ぎに始めるのが、他人を覗き見する行為です。そのための道具となる「覗き眼鏡」の一式は、鞄の底に隠し持つように持参したのでした。
それを取り出す気になったのは、旨い具合に、「私」の部屋がある2階の窓の下に、湯殿の屋根が見えたからです。皆が寝静まるのを待ち、部屋と湯殿をつなぐ「覗き眼鏡」の設置をする「私」でした。
ただ、「私」も「私」なりの“哲学”を持ちます。男女の裸そのものを見たいというのではなく、脱衣場の大鏡の前で人が見せる態度を見るのが「私」の目的です。その辺りについて、次のような書き方をします。
私の見たいと思ったのは、周囲に誰もいない時の、鏡の前の裸女でありました。或は裸男でありました。我々は日常銭湯などで、裸体の人間を見なれておりますが、それはすべて他人のいる前の裸体です。(中略)それは人目を意識した、不自然な姿に過ぎないのです。私はこれまでの覗き眼鏡の経験によって、人間というものは、周囲に他人のいる時と、たった一人切りの時と、どれほど甚だしく、違って見えるものだかということを、熟知していました。(中略)この事実から推して行きますと、裸体の人間を、鏡の前に、たった一人で置いた時、彼が彼自身の裸体を、いかに取扱うかを見るのは、甚だ興味のある事柄ではないでしょうか。
江戸川 乱歩. 【江戸川乱歩作品集・107作品・原作図表33枚つき】 (Kindle の位置No.95813-95815). Ranpo Edogawa works. Kindle 版.
自分の想いを実現すべく、「私」は脱衣場の大鏡がある位置に覗き眼鏡をセットし、離れた自分の部屋でそれを鑑賞しようというわけです。実に倒錯した行為に違いはありませんが、同じような空想や妄想を持つ人は少なくない(?)でしょう。
今から100年以上前の話ですから、厚紙の筒と鏡、レンズを使った装置が導く映像はちっぽけなものでしかありません。しかしそれを通じ、「私」は事件(?)を目撃してしまうという趣向になっています。
乱歩という作家は、『人間椅子』(1925)にしても『屋根裏の散歩者』(1925)にしても、人間が本能的に持つであろう性的な欲求を作品に昇華しています。
それらの作品は、常識的な顔しか見せたがらない人の眉をひそめさせます。しかし、そんな人の内面にも、似た欲求が隠されているであろうことは誰でも知っています。
それがあからさまになるのは、その人が独りだけでいるときです。人間に裏表があることを熟知していた乱歩は、それだから、覗き眼鏡を使う想定までして、それを暴きたいと考えるのです。
そういった意味では、乱歩ほど正直な人間はいなかったといえます。
乱歩は自分自身にも正直で、それだから、自分の性癖も明かし、その性癖を持つ「私」を作品に登場させて平気だったのです。
村上を対比させますと、村上の「私」は多くが傍観者で、偏った性癖の持ち主は自分以外の人間として表します。
それを狙って乱歩と村上の作品を交互に読んでいるわけではありませんが、こんな読み方をすることで、両者の覚悟の違いが明白に感じられる結果となりました。