片想いに狂う村上春樹版シェエラザード

前回は、Amazonの電子書籍版で村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録されている6篇のうち、前半の3篇を読み、その感想めいたことを書きました。

その後、村上の短編集はそこで一旦離れ、江戸川乱歩全集の続きである『パノラマ島奇談』『新青年』1926〔大正15、昭和元〕年10月号から1927〔昭和2〕年月号まで、 途中、26年12月号と27年3月号の休載を挟み、5回連載)を読んだりしていました。そしてまた、気分転換を兼ね、昨夜、眠る前に村上の短編集の続きを読みました。

4篇目は『シェエラザード』です。

作品の中途、シェエラザードが何者で、主人公の羽原(はばら)(31)とどんな関係かを次のように書きます。

 羽原がシェエラザードと初めて会ったのは四ヶ月前だ。羽原は北関東の地方小都市にある「ハウス」に送られ、近くに住む彼女が「連絡係」として羽原の世話をすることになった。彼女の役目は外に出ることのできない羽原のために、食料品や様々な雑貨の買い物をし、それを「ハウス」に運ぶことだった。読みたい本や雑誌、聴きたいCDなどを彼の希望に応じて買ってきてくれたりもした。映画のDVDを適当に見つくろって持ってきてくれることもあった(その選択の基準は羽原には今ひとつ吞み込めなかったのだが)。

村上春樹. 女のいない男たち (文春文庫) (Kindle の位置No.2093-2098). 文藝春秋. Kindle 版.

羽原が北関東の小都市にある「ハウス」へ送られた理由は書いてありません。そこから外へ出られないため、羽原が自分の気持ちの中ででシェエラザードと呼ぶ女性が、羽原が生活していけるよう、世話をしてくれているのです。

シェエラザードは、週に2日ほど、週末以外のときにやって来ます。

シェエラザードは、看護師の資格を持つ専業主婦で35です。結婚するまでは、看護師として働いていたのでしょう。今も、資格を持つため、応援で看護師の仕事をすることがあるようです。

夫は会社員で、小学生の子供が二人いると書かれています。

読み始めてすぐ、奇妙な設定の話だと感じました。夫と子供がいるシェエラザードが、食料品などの買い物をして、それを羽原のハウスへ置いていくだけでなく、必ず性交をすると書いているからです。

それは、誰かからの指示なのか、それともシェエラザードの欲求不満の解消からなのか、羽原にはわかりません。性交自体は、情熱的でも義務的でもなさそうです。

シェエラザードは帰る時刻を守り、必ず午後4時30分までには、彼女が自分で運転してきたマツダの旧い型の青い小型車で自宅へ帰っていきます。小学校から子供たちが戻り、夕食の支度をするからでしょう。

羽原はコックをした経験があり、自炊を苦としません。酒は一切飲まず、飲むとしたらコーヒーです。PCを持たないためインターネットにアクセスすることはなく、テレビ番組を見ることもありません。

外へ出ることもできず、さながら、孤島に取り残された人、あるいは彼自身が孤島になったように、本を読むことを唯一ぐらいの楽しみにしています。

シェエラザードが羽原の部屋で必ずしてくれることに、性交と、不思議な話を聞かせてくれることがあります。そんなことをしてくれる主婦だったから、彼女を、『千夜一夜物語』に出てくるシェエラザードと名付けたのでした。

シェエラザードと羽原の中では名付けられた彼女は、今では歳相応の退化があるものの、十年前であれば、それなりに異性を魅力しそうな容貌を持つようです。

その彼女が高校2年の時の話をしてくれ、これが本作の核となります。それは、彼女が空き巣に入る話でした。

物を盗むのが目的ではありません。彼女が当時片想いしていた同級生の男子が好きなあまり、彼の部屋へ忍び込みたいというのが目的なのです。

意中の男子は、サッカー部の選手で、背が高く、成績も良いようです。特別ハンサムとはいえないものの、清潔そうで、とても感じが良いと話します。

シェエラザードはその男子に熱を上げたものの、男子には好きな人がいるらしく、見向きもしてくれなかったのでした。それでも、男子への恋心は日を追って強くなるばかりです。

「写真AC」のイメージ素材 (※元の素材はカラー。セピア調に変更)

このままでは頭がおかしくなると考え、ある日の午前、無断で学校を休み、男子の家へ忍び込むのです。

男子の家族は、隣の市の中学校で国語教師をする母と中学生の妹の3人です。父は、数年前に交通事故で亡くなったことを知っていました。

ということは、平日の午前中であれば、男子の家には誰もいないことになります。それらを調べた上で、男子の家へ忍び込むことを決行します。玄関の鍵は、よくある例のように、マットの下に隠されていたのでした。

男子の部屋は、当て推量通り、2階にありました。忍び足で室内に入ると、日頃の男子のイメージそのままで、几帳面に整頓されています。

ここから先は、おそらくは人間が共通して隠し持つであろう行動に移ります。

常識的に振る舞いたい人ほど、「自分は絶対そんことはしない」というでしょうが、血の通った生身の人間である以上、男女が巡らす想像や潜在的に抱く欲望に、差異があるとは思えないのです。

高校2年だったシェエラザードは、男子が毎日座る勉強机の椅子に座っただけで、心臓がドキドキしてしまうのでした。机の上にあった文房具を順に手に取り、匂いを嗅ぎ、口づけしたりします。

あなたに片想いをする異性がいて、その人の部屋へ忍び込むことができたなら、シェラザードと同じようなことをしない保証はないでしょう。

一度目の空き巣は15分ほどで退散しますが、二度、三度と繰り返すにつれ、部屋に留まる時間が伸び、行動も大胆になっていきます。

結局、三度で男子の家への空き巣は終わりますが、その三度目のとき、意中の男子の汗の匂いを嗅ぐことに成功します。それは男子が洗濯籠に脱ぎ捨てた下着のシャツです。

同じようなことを、高校2年の男子が、意中の女子の家に忍び込んでする様子を書いたらどうでしょう。それは作りものであっても、読者に嫌な印象を残すものになったかもしれません。

男子が洗濯籠を漁れば、その中から掴みだすものが、シャツでは収まらないからでしょうから。

村上の半ば性的欲求が書かせた短編でしょうけれど、ぎりぎりのところで欲求は制御され、女子が男子のシャツのシャツの匂いを嗅ぐ表現に留めたのかもしれません。

シェエラザードはそのシャツを持って二階に上がり、もう一度彼のベッドに横 になった。そしてシャツに顔を埋め、その汗の匂いを飽きることなく嗅ぎ続けた。そうしているうちに、腰のあたりにだるい感覚を覚えた。乳首が硬くなる感覚もあった。そろそろ生理が始まるのだろうか? いや、そんなことはない。まだ時期的に早すぎる。たぶんこうなるのは性欲のせいだろう、と彼女は推測した。それをどのように扱えばいいのか、どう処理すればいいのか、彼女にはわからなかった。というか、少なくともこんなところでは何もできない。何しろ彼の部屋の、彼のベッドの上なのだ。

村上春樹. 女のいない男たち (文春文庫) (Kindle の位置No.2348-2353). 文藝春秋. Kindle 版.

男子の匂いが染み込んだシャツを洗濯籠に戻すことができず、家へ持って帰ってしまう高校2年のシェエラザードでした。

改めて書くまでもなく、人が誰かに恋する時というのは、心の状態がいつもとは違います。ある意味では心が良くも悪くもバランスを欠いた状態といえ、それだから、恋の炎が盛んに燃え上がるのです。

意中の異性を理想の姿に想い描き、その理想像に恋心を強めることもあるでしょう。

時にはそれが、シェエラザードの高校時代のように、異性のモノに向かい、そこにフェティシズムを味わうこともあるでしょう。

村上はこんな話を書きながら、またしても、自分を常識的なところに置こうとしています。羽原に村上が持つ実像が少なからず投影されているのだとすれば、次の件に、繕った村上を見ることができます。

あるいはそれはただ私ひとりの身に起こった、特殊な出来事だったのかもしれない。ねえ、あなたにはそういうことってあっ た?」

考えてみたが、羽原には思い当たることはなかった。「それほど特別な出来事はなかったと思うな」と彼は言った。

村上春樹. 女のいない男たち (文春文庫) (Kindle の位置No.2440-2442). 文藝春秋. Kindle 版.

現実の世界で恋をする者は、思うがままに振る舞うと良いでしょう。あとさきのことは考えず、したいようにすることです。

その結果自分が傷つくようなことがあっても、それが人生というものです。恥ずかしがることはありません。

ただ、自分がしていることが恥ずかしく感じ、それに身もだえすることも恋に良い作用を及ぼすことも頭の隅に置くと良いでしょう。

ともあれ、恋するとは狂うこと_といえなくはないでしょうか。

気になる投稿はありますか?

  • 村上作品に足りないもの村上作品に足りないもの 前回の本コーナーでは、昨日の昼前に読み終えた村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』の全体の感想のようなことを書きました。 https://indy-muti.com/51130 その中で、本作についてはほとんど書いたつもりです。そう思っていましたが、まだ書き足りないように思いますので、今回もその続きのようなことを書きます。 本作のタイトルは『1Q […]
  • 『1Q84』の個人的まとめ『1Q84』の個人的まとめ 本日の昼前、村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』を読み終えることが出来ました。 本作については、本コーナーで五回取り上げています。今回はそのまとめの第六弾です。 本作を本コーナーで初めて取り上げたのは今月8日です。紙の本は、BOOK1からBOOK3まであり、しかも、それぞれが前編と後篇に分かれています。合計六冊で構成されています。 それぞれのページ […]
  • 精神世界で交わって宿した生命精神世界で交わって宿した生命 ここ一週間ほど、村上春樹(1949~)が書き、2009年と2010年に発表した村上12作目の長編小説『1Q84』を読むことに長い時間をあてています。 また、その作品について、本コーナーでこれまで四度取り上げました。今回もそれを取り上げるため、第五段になります。 これまでに全体の80%を読み終わりました。私はAmazonの電子書籍版で読んでいます。電子版のページ数 […]
  • 村上作品で初めて泣いた村上作品で初めて泣いた このところは村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』にどっぷりと浸かった状態です。とても長い小説で、なかなか読み終わりません。 紙の本では、BOOK1からBOOK3まであり、それぞれは前編と後篇とに組まれています。全部で6冊です。私はAmazonの電子書籍版で読んでいるため、ひと続きで読める環境です。 https://indy-muti.com/51050 […]
  • 『1Q84』を実写版にするなら『1Q84』を実写版にするなら 村上春樹(1949~)の長編小説『1Q84』を読んでいます。 私は一冊にまとめられたAmazonの電子書籍版で読んでいますが、紙の本はBOOK1からBOOK3まであり、それぞれが前編と後篇に分かれています。 紙の本で本作を読もうと思ったら六冊になり、本作だけで置く場所を取りそうです。 前回の本コーナーで本作の途中経過のようなことを書きました。 ht […]