江戸川乱歩の短編『灰神楽』を、Amazonの電子書籍で読みました。
題名の灰神楽ですが、今は灰を入れる火鉢というものも日常で目にすることがなく、熱湯が入った鉄瓶と火鉢といった図柄も縁遠い生活となり、馴染がなくなりました。
それらが日常にあった時代に書かれた作品です。乱歩がこの短編を『大衆文芸』3月号に発表したのは、1926年です。
本作は趣向が変っており、殺人事件が起きた直後から話が始まります。ですから、被害者と犯人が冒頭から登場し、読者が犯人を推理する楽しみは用意されていません。
犯行が行われた場所は、田園地帯に建つ一軒家の二階です。そこは奥村一郎という男の家で、犯人となった庄太郎が、拳銃で一郎の額の真ん中を打ち抜き、命を奪ったのでした。
その衝撃で、和室に置かれた桐でできた大きな角火鉢にかかっていた鉄瓶が傾き、灰神楽が立ち昇るというわけです。
庄太郎と一郎は付き合いがあっても仲は良くなく、ひとりの女性を巡って感情がぶつかっていた、というようなことが書かれています。ただ、それがどんな女性で、どのような対立があったかは作品で書かれていません。
それはおそらくは一郎の妻に収まった女性でしょうけれど、事件が起きたとき、一郎の妻は里へ行っていて家にいない設定です。また、家にはばあやがいるようですが、庄太郎が訪ねてくる前に、用事を頼み、遠くまで出かけて、すぐには戻らないというわけです。
家の中には一郎と、訪ねてきた庄太郎のふたりだけでした。
拳銃を発射すれば大きな音がしましょうから、隣近所に気づかれないことは考えられません。ところが、その家が建つ辺りは、広い庭付きの家がまばらにある呑気な環境です。
また、季節は稲の借り入れ時で、田んぼでは、実った稲を護るため、鳥脅しのための空砲音がしきりに聞こえるという、庄太郎には願ってもない条件が揃っていたのでした。
そうはいっても、人を拳銃で撃ち殺してしまった現実を変えることはできず、思わず引き金を引いてしまった庄太郎は我に返り、自分が犯した出来事を自分で恐れ、自分の身の上を考えます。
すぐに家を飛び出せばいいものですが、出合い頭に誰かと会わない保証がないため、犯行現場でしばし躊躇します。
部屋の正面の障子は1枚開いており、そこからは、正面に木立が見え、木立の隙間からは、庭の向こうに広がる空き地が見えます。
その空き地では、中学生ら数人が、野球のバットとボールで野球ごっこをする様子が見えます。
覚悟を決めて家を出ようと庄太郎が階段の方へ一方踏み出したとき、庭の方からバサッと音が聞こえ、続いて人の声が聞こえてきます。
耳を澄ましていると、一郎の弟、二郎の声が混じっているのがわかります。二郎は、庭の木立越しに見えた空き地で、野球ごっこをしていた仲間に入っていました。
どうやら、誰かが打ったボールが、一郎の家の庭に飛び込んだらしく、それを捜しに来たようです。
まずいことになったと怯えた庄太郎でしたが、ボールは庭で見つかったらしく、二郎と仲間の中学生たちの声は遠ざかっていきました。
冒頭から犯人と被害者がわかってしまい、このあとどのように読者の興味を惹きつけるかですが、それは、犯人である庄太郎の心理描写と、灰神楽のように自分の犯行を煙に巻くような心理的工作です。
警察は、現場と被害者をつぶさに検証し、自分で自分の額を拳銃で撃って自殺する者はいない、と他殺の線で捜査を始めます。
心理的に追い詰められた庄太郎は、病人のように、短期間にやせ細っていきます。
庄太郎はまったく食えない独り者の画家という設定ですが、彼が絵を描くような場面は一度も出てきません。庄太郎は下宿の一間に暮らす設定です。
絵を描くにはお金がかかり、その援助を一郎に頼る弱みを庄太郎は持っていたのでした。結果的に一郎を殺してしまった日も、借金を頼みに行ったものの、その日は無下に断られ、日頃の仲の悪さもあり、咄嗟に拳銃を手に取り、引き金を引いてしまったのです。
普通の家に拳銃があるというのが不思議ですが、一郎は銃器類に興味を持つ男ということです。また、付近で強盗事件が起きたりするらしく、護身のためもあって、銃には実弾が込められ、いつでも発射できるようになっていたのです。
数日間、庄太郎は、自分が起こした事件ではありましたが、生きるか死ぬかの苦しみを味わいます。そしてある瞬間、あるひらめきが庄太郎の頭にあり、犯行があった一郎の家へ行くのでした。
犯行のあった二階の和室で、庄太郎は一郎の弟の二郎と相対します。
そこから、庄太郎は二郎を罠にはめる話術を展開し始めます。
庄太郎は二郎に、警察は部屋の隅々まで調べたろうねと訪ね、二郎はもちろんですと答えます。
それを受けて庄太郎は、手掛かりは案外、目につきやすいところにありながら、それを見逃すことが往々にしてある、というような話をします。
たとえば、として、部屋の真ん中に置かれた大きな火鉢に注目し、次のような話をします。
「そうだろう。ヒバチの灰なんてことは、だれしも閑却しやすいものだ。ところで、きみはさっき、にいさんが殺された時には、このヒバチのところに一面に灰がこぼれていたといったね。むうんそれは、ここにかけてあった鉄ビンが 傾いて、灰神楽が立ったからだろう。問題は何がその鉄ビンを傾けたか、という点だよ。実はね、ぼくはさっき、きみがここへ来るまでに、変なものを発見したのだ。ソラ、これを見たまえ」
庄太郎はそういうと、火バシを持って、グルグル灰の中をかき捜していたが、やがて、一つのよごれたボールをつまみ出し た。
江戸川 乱歩. 【江戸川乱歩作品集・107作品・原作図表33枚つき】 (Kindle の位置No.83615-83620). Ranpo Edogawa works. Kindle 版.
どうしてこんなボールが灰の中に入っているのだろうと不思議がり、犯行があったとき、部屋の障子が閉まっていたか、二郎に訪ねます。
二郎は、1枚だけ開いていたと答えます。
庄太郎は、自分が一郎を殺したあと、野球ごっこをしていた二郎が、打ったボールを捜しに庭に入っていたことを手掛かりに、誰かが打ったボールが開いた障子からこの部屋に飛び込み、火鉢の灰の中に潜り込んだとは考えられないかと推理を働かせます。
そのボールが、灰の中に入る前、鉄瓶に当たってひっくり返し、灰神楽を起こしたことまで示唆して見せます。
急に不安になる二郎でしたが、ボールは庭で見つかったのだから、こんな中に入るはずはないと答えます。
そんな展開も予め予想して置いた庄太郎は、次のように話し、二郎を追いつめます。
「しかし、 こういうことも考えうるね。きみが 拾ったボール は、打ったやつではなくて、以前からそこに落ちていたボールであった、ということもね」
江戸川 乱歩. 【江戸川乱歩作品集・107作品・原作図表33枚つき】 (Kindle の位置No.83643-83644). Ranpo Edogawa works. Kindle 版.
その出来事が起きるまで、一郎は拳銃を手に取り、眺めたり、撫でたりしていたのだろう。そのとき、突如ボールが部屋に飛び込み、鉄瓶に命中してひっくり返り、灰神楽が起きた。その衝撃で、思わず引き金を引き、それが額に命中したのではなかろうか、と用意した推理を二郎に聴かせる庄太郎でした。
私はこの件を読み、あまりにも馬鹿げた新型コロナウイルス(COVID-19)騒動を重ね合わせずにはいられませんでした。
乱歩が創作した庄太郎の犯行隠しは実現不可能に思えますが、同じ程度のトリックが新コロ騒動では有効に働き、世界中のほとんどの人が未だに騙されています。
乱歩作品に例えれば、一人ひとりの人間をPCR検査にかけ、「ほら、君の体の中にも新コロウイルスがあることがわかった。だから、今日から君も、新コロ感染者だ」と診断を下すことをしています。
しかし、「僕が打った球は庭で見つけたのだから、火鉢の中からボールが見つかるはずはないよ」と冷静に物事を見ることができたなら、自分の体の中から見つけたというコロナウイルスが、中国論文とやらが定義する新コロと同じものか証明できないだろう。そうであるなら、自分が“感染”したとどうして決めつけられるのだね? と自信満々にいい返すことができるはずです。
実際そうで、中国論文定義の新コロとやらが、世界に蔓延した証拠は未だにひとつもありません。詳しくは、この問題を発生当初から疑問視されている徳島大学名誉教授、大橋眞氏のYouTube動画をご覧ください。
考えてもみてください。いわゆる新コロといわれているウイルスが、本当に存在すると仮定して、それが一番早く伝播が始まった昨年後半から数カ月で、全世界に感染が広がったとするのは無理があり過ぎるでしょう。
そんなウイルスは未だかつてありません。
この騒動の種は単純です。騒動を作り出すのにポリメラーゼ連鎖反応(PCR)検査というものを使っていることに気がつくべきです。この検査は何を診ているのかわからず、誰もが当たり前に持つ常在ウイルスを見つけているだけ、というのが騙しの種です。
世界中の陽性者のほとんどは無症状で、症状が出たり、亡くなったりする人は、高齢者や持病を複数持つ人に限られています。ここから何がいえるかといえば、元々死期の迫っていた人が亡くなっているだけで、死の原因が新コロである可能性は限りなくゼロということです。
ワクチン利権が絡んでいるからか、世界の政府とマスメディアが結託し、騒動が静まらないよう工作を続けています。それでも、時間が経つごとにボロが出始め、日本の国民も、冷静に騒動を眺められる人が増えました。
死者の数にしても、別の原因で亡くなったのに、その人にわざわざ無意味なPCR検査を実施し、無理から棒に陽性者に仕立て上げ、この人はあの世にも恐ろしい新コロで亡くなった、と死者の数を水増しすることをしています。
おそらくは、新コロで命を落とした日本人は、ほぼゼロに近いのではなかろうか、と私は考えています。
そもそも論として、新コロというウイルスが本当にあるかどうかも疑わしいといわざるを得ません。
ないものを「ある」というのは、ないはずのボールを火鉢の灰の中から取り出して見せた庄太郎と同じです。そうした上で、「このボールを打つバットを振ったのは君じゃないのか?」といったように二郎に揺さぶりをかけることまでしています。
こんな馬鹿々々しいトリックを、小説ではなく、現実の世界で人々に信じ込ませ、その挙句に、まったく意味がなく、害悪でしかないワクチンを国民に接種させることまで企んでいます。
本当にとんでもない話です。
乱歩の本作は、名探偵の明智小五郎も出てきませんが、最後には庄太郎の悪巧みが暴かれて終わります。
新コロ騒動も、多くの人が知恵を出し合って暴くことをしないと、とんでもない災厄が待っています。悪巧みのワクチンで人々がバタバタ倒れるようなことが起こってからでは取り返しがつきません。