乱歩のあの作品の逸話

職業作家で、新聞や雑誌に連載を持つ人は、締め切りに追われ、気の休まることがないでしょう。

それは昔の作家も同じです。

江戸川乱歩は多くの作品を残していますが、それらをすらすらと書けたわけではないのでした。

横溝正史の随筆集を読んだあと、先輩格の乱歩に興味を持ち、『江戸川乱歩 電子全集17 随筆・評論 Kindle版』を手に入れました。全部で5巻あり、全て購入しました。

昭和2年から20年に乱歩が書き残した随筆を中心として第2集から読み始めました。

乱歩といえば病的なほどの整理魔として知られ、引っ越し魔でもあった乱歩が46回の引っ越しの末、終の棲家となったのが東京・池袋の邸宅です。敷地内には土蔵があり、その中は、自著も含めた書籍類をきちんと整理して所蔵しています。

乱歩は自分が書いた文章は一つ残らず残さなければ気が済まないというように、どんな短い文章も残しています。それが今回手に入れた随筆・評論の全集に、年代順に紹介されています。

自分を実態以上に偉く見せることは考えず、連載の仕事を持ちながら、締め切りまでに書くことができず、謝罪した文章も隠すことをしていません。

今読んでいる昭和2年以降の分にも、たびたびそうした断りの文章が載っています。

そうした傾向を乱歩が持つことは、横溝正史の随筆集を読むことで知っていましたが、乱歩自身が残した文章を読み、それが想像以上であったことを知りました。

乱歩は様々な職業を経たのち職業作家になっていますが、初めての作品を発表したのが大正12年ですから、昭和初年頃は、乱歩としても、自分が生み出す作品に絶対の自信は持てなかったのかもしれません。

自分が世に発表してしまった作品の出来を自分で認めることができないと考えることがあり、その作品を思うと、穴があったら入りたくなる、といった表現を使って自分の思いを伝えたりもしています。

横溝の随筆集『探偵小説五十年』には、そんな乱歩との交流の中で起こったある逸話が紹介されています。

1926(大正15|昭和元)年、横溝は乱歩に誘われて生まれ育った神戸から東京へ呼び寄せられますが、東京に出てきてからも、横溝は自分が職業作家になることは考えていませんでした。

そんな横溝の境遇を考え、乱歩は横溝を博文館という出版社への就職を斡旋します。横溝はその出版社で、探偵小説を扱うことになる『新青年』という雑誌の二代目の編集長になります。

これから紹介する逸話は、横溝がその雑誌の編集長をしていた昭和2年3月号から昭和3年9月号までの間に起こったことになります。

横溝編集長は、『新青年』の増大号を立案し、当時の探偵小説作家の作品を多数並べることを思い立ちます。それにあたっては、代表作家である乱歩を抜きには考えられません。

ところがその当時も、乱歩は筆を断った状況にあり、頭を抱えました。それを知り合いに打ち明けると、今は京都にいるはずだから、訪ねて行って頼めば、嫌とはいわないだろうとなだめられ、京都までの旅費まで工面してくれたそうです。

横溝はさっそく京都にいた乱歩を訪ねますが、すぐには良い返事はもらえず、2、3日粘った末、ようやく次のような言質を得ます。

「それじゃこうしよう。僕はこれからまだひと月ほど旅をするつもりだが、帰りには名古屋の小酒井不木氏のところへ寄るつもりである。君もそこへ来てくれ。旅行中に書いておいて渡すから」

横溝正史. 探偵小説五十年 (Kindle の位置No.1616-1617). 講談社. Kindle 版.

約束した日に小酒井氏の家で落ち合いますが、乱歩からは、一旦や約束したものの、結局ものにならなかった、と打ち明けられたのでした。

頭を抱えるしかなかった横溝は、それでは、と自分が書いた小説があり、それほどの愚作とは思えないから、それを乱歩が書いたことにして載せることを了承してくれないか、と相談を持ち掛けます。

乱歩は考えた末、提案を受け入れたようです。

そんなことがあった晩、名古屋の宿屋で横溝は乱歩と同じ部屋に泊まります。夜中にふと気がつくと、乱歩は自分のカバンをごそごそやったあと、部屋から出ていきました。

部屋に戻った乱歩が、横溝に次のように打ち明けます。

「実は僕、書いていたんだよ。しかし、あまり自信がないから小酒井さんのまえで出しかねたのだ」

横溝正史. 探偵小説五十年 (Kindle の位置No.1630-1631). 講談社. Kindle 版.

驚いた横溝は、自作を乱歩作品として紹介する話は反故にするから、ぜひ、その作品を頂戴したいと懇願すると、乱歩からは次のような驚くべき言葉が返ってきたのでした。

「ところが、今便所の中へ破って捨てゝ来た」

横溝正史. 探偵小説五十年 (Kindle の位置No.1632-1633). 講談社. Kindle 版.

その作品こそが、あの『押絵と旅する男』なのでした。

乱歩が横溝と泊まったのは大須ホテルかもしれません。といますのも、乱歩が書き残した随筆や評論などをまとめた電子全集の第2集に、次のように書かれているからです。

 私達外から集まるものは、よく大須ホテルといふ妙な宿屋に泊つた。昔のお女郎屋をホテルに改造したもので、一種異様の感じがあつた。演習を見学に来た支那の中将や少将が泊つてゐたり、洗面所でひよつこり相撲の出羽ケ嶽と顔を合せたりした。なぜそんな所へ泊つたかといふと、最初寸楽からこゝへ案内されたのがきつかけで、女中達が非常に心安く物を言つて気が置けないものだから、つい定宿になつてしまつたのだ。

江戸川乱歩. 江戸川乱歩 電子全集17 随筆・評論第2集 (Kindle の位置No.1601-1605). 株式会社小学館. Kindle 版.

原稿用紙はトイレの中に消えても、話は乱歩の頭の中に残っており、執筆し直した作品が、昭和6年、『新青年』6月号に掲載され、今に残ることになります。

現代の作家も締め切りに追われているはずです。ですので、のちに語られるような逸話が人知れず生まれていることでしょう。

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