録画してあった番組を見ましたので、その感想を書いておきます。
先月25日午前、NHKBSプレミアムの「プレミアムカフェ」で放送された番組です。この番組枠では、過去にNHKの衛星放送で放送された番組のうち、視聴者からのリクエストが多い番組がセレクトされて再放送されます。
今回放送されたのは、「五大陸横断 20世紀列車がゆく オリエント幻想の果てに ヨーロッパ オリエント急行の旅」です。1997年に「ウィークエンド・スペシャル」という番組枠で放送されたプログラムのようです。
同じ番組が、今年の1月16日に放送されましたが、新型コロナウイルス(COVID-19)騒動によって巣ごもりをする人が多い今の時期に、再度番組編成に組み入れたようです。
私は今回、初めてこの番組を見ました。
作家の林望氏が旅人となり、かつてオリエント急行が走った鉄道路線を訪ねる内容と謳っています。
オリエント急行と聞きますと、アガサ・クリスティが書いた『オリエント急行の殺人』を思う浮かべる人が多いでしょう。この作品を原作とする映画やドラマは数多く作られています。
私も『オリエント急行殺人事件』のイメージを強く持つこともあり、その映画の各シーンを随所に挟む鉄道紀行のような番組を想像していました。私の想像とは違い、内容は重く、考えさせられました。
簡単にオリエント急行の歴史を振り返っておきましょう。
フランスのパリからトルコのコンスタンティノープル(イスタンブール)までを乗り換えなしで結ぶ鉄道路線として、1883年に運行を開始しています。
世界で初の鉄道が英国のリヴァプールとマンチェスター間に敷かれたのが1830年だそうですから、その50年後ぐらいになります。
ヨーロッパの人々は、遠いオリエントの世界に幻想や憧れを持ったのでしょう。時間とお金に余裕のある人は、鉄道の長旅で、東へ東へと向かったことになります。
オリエント急行は100年を待たず、1977年に幕を下ろしています。ただ、鉄道の線路は残され、その上を今は(といっても、本番組が制作された1997年当時ですが)、観光列車や普通列車が運行されているようです。
オリエント急行を取り上げながら、番組はなぜか、英国・ロンドンのヴィクトリア駅からスタートしています。私は意外な印象を持ちましたが、オリエント急行的な列車が、英国国内を走った歴史もあるのでしょうか。
番組で旅人となった林氏は、オリエント急行で使われたという豪華な観光列車に乗り込み、往時の雰囲気を味わう趣向です。
フォークストン駅で下車した乗客はフェリーに乗り換えてヨーロッパ大陸へ渡り、いよいよ、本来のオリエント急行の旅が始まるというわけです。
このあたりまでは、よくある鉄道紀行のような印象でしたが、イスタンブールから西ヨーロッパを目指す逆ルートに切り替わると、俄然雰囲気が異なり、考えさせられる場面が多くなります。
逆コースには番組の旅人はおらず、カメラが目についた人々を追っていきます。
イスタンブールにラーレリーという地区があり、そこに、衣料品を扱う問屋があります。そこで取材陣が見つけたのは、男一人、女二人の三人連れです。
いずれも歳は40代後半で、主にシャツを大量に仕入れています。訊くと、夫婦と仕事仲間の女性で、セルビアから買い出しに来たと答えます。
三人の旧祖国はユーゴスラビアです。
私は不勉強なもので、ユーゴスラビアがその後、どんな歴史を辿ったのか、よく知りません。
分離独立する前の旧ユーゴスラビアで成長した三人は、多くの民族や宗教があったものの、みんな仲良く暮らしていた、と話しています。
それがその後、内戦がおこり、スロベニア、クロアチア、マケドニア(北マケドニア)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロの独立国に分かれる歴史を歩んでいます。
セルビアの今の経済状況を私は知りませんが、本番組を制作した頃は物資が不足していたため、取材に応じた夫婦は、イスタンブールで買い出しした衣服を闇市で売る仕事を4年前に始め、何とか生き延びていると話しています。
考えてみれば、オリエント急行で東を目指す乗客の多くは、それなりに裕福な人で、オリエント文化に憧れを抱いての旅路だったでしょう。
それとは逆に、同じ鉄道でオリエントから西ヨーロッパを目指した人は、観光ではなく、別の切実な目的からだっただろうと想像します。
国境をまたいで運行される列車のため、国境では税関の職員が乗客の持ち物をチェックします。
三人は買いこんだ大量の衣類を、ホテル内で7、8時間かけて、足で踏み込んで圧縮していくつもの大きなバッグに詰め込み、列車内に持ち込みます。
列車は個室に仕切られており、三人は、座席の下や網棚にバッグを押し込み、ひと目では荷物がないようにカモフラージュし、税関員の監視を逃れます。
彼らは生きるのに必死で、将来の夢など持てないと話します。
トルコにも多くの移民がおり、番組が作られた当時は、6500万人の人口のうち、1800万人はバルカン半島からの移民だ、と取材に答えた男が話しています。
西ヨーロッパから東を目指す林氏が乗る列車は、オーストリアのウィーンに到着し、街の歴史を探訪します。
私もそうですが、ウィーンといいますと、旧い歴史を持つ洗練された街というイメージを持つ人が少なくないでしょう。それが、本番組で私は初めてぐらいに認識しましたが、想像しなかったほど、他民族が同居する街です。
ウィーンといえば、ウィンナ・コーヒーが知られます。歴史を知らない人は、ウィーンで生まれたコーヒーと思うかもしれません。しかし、この街にカフェ文化をもたらしたのは、オスマン帝国時代のトルコ軍(?)なのでした。
ウィーンの街は、1529年と1683年の二度、トルコ軍によって包囲されます。このときは、トルコから来た軍隊により、多くのウィーン市民の首が斬られるなどしたそうです。
カフェで林氏にコーヒーの歴史を話す男性は、にこやかに、こんなことをいいます。
トルコは我々の敵でした。しかし、良い文化に、民族や政治は関係がありません。どんどん取り入れればいい。そうやって、ウィーンの文化は発展してきたのですから。
トルコ軍に襲われ、多くの市民の首を斬られた歴史がありますが、今は誰も話題にしません。悪いことは早く忘れるべきです。そんなことをいつまでも憶えていても、何の得にもならないからです。
トルコ軍はこの街に、オリエントからの特別の贈り物を残してくれた。それだけです。
幾多の戦乱に明け暮れた欧州人の、達観した奥深さといえましょうか。
ウィーンの街を650年にもわたって支え続けたのがハプスブルク家です。
その家系に連なるひとりの伯爵の屋敷を林が訪ねます。伯爵が取り出した家系図で、115代前まで辿れるといいます。同家の初代はラムセス2世というエジプト王で、画像に残るミイラが示されます。
家系には東西の血が混じり、モンゴルの血も自分の身体に混じっていると話します。
1945年にナチス・ドイツが崩壊すると、ウィーンは、英国、フランス、米国、ソ連の4カ国で分割統治されます。
そのとき、伯爵の家はソ連軍に接収され、秘密警察の裁判所に使われたそうです。家に、政治犯が連行され、厳しい取り調べをしたそうですが、政治犯が生きて家を出ることはなかったと語ります。
政治犯を家の外壁を背にして立たせ、銃殺します。1発目の弾を発射し、体が崩れ落ちる時、もう一度撃ったそうです。
伯爵は、政治犯といわれた人々は、自分たちと何も変わらない、普通の人だった、と話しました。
オリエント急行の鉄道路線を東から西へ目指した人の多くは、出稼ぎの人でした。
第二次大戦が終わったあと、ウィーンも労働者不足となり、バルカン半島からウィーンに渡った人が多くいるといいます。
26年前にセルビアから出稼ぎでウィーンに来たという50前の男性は、生きていくため、道路工事や長距離トラックの運転手などの仕事をしたそうです。
その後、小さな建築会社を持つまでになりました。今(1997年当時)は、ギリシャやポーランド、セルビアなどからの労働者を雇っていると話します。
その彼が、次のような話をします。
民族意識は必要なもので、かけがえのないものだ。
それでも、その人間が、どこから来たかなんて関係ない。互いを尊重しながらやっている。
世界で民族紛争があとを絶ちませんが、日本に住んでいる人間には遠い話に思えてしまいます。
紛争の影響を受けるのは普通の市民ですが、生き抜くには、自分に訪れた苦境を嘆いてばかりもいられません。
どんな立場に置かれても必死に生きる人々の姿を見て、人間が持つ逞しさを思い知らされた2時間あまりの”旅”でした。