誰しも、正体がわからないものには恐怖を覚えます。今は、新型コロナウイルス(COVID-19)に、程度の差はあるでしょうが、人々はおしなべて恐怖しています。
そんな今の状況に似合いそうな話を読みました。岡本綺堂の『くろん坊』です。初出は1925年7月の『文藝倶楽部』です。
昨年、私は綺堂のおもしろさに目覚め、Amazonの電子書籍で続けて読み、6月に、綺堂の作品242作品が収められた『岡本綺堂全集』を手に入れました。本作はその中に収められた一作です。
本作に付けられた『くろん坊』ですが、現代では表題として扱いにくい状況に置かれています。かつては当たり前に読まれていた『ちびくろサンボ』も、ずいぶん昔に黒人差別を助長すると指摘され、表舞台から姿を消しました。
綺堂が書いた頃は、良い悪いは別にして、今よりはギスギスしてはいなかった証拠となりましょう。
綺堂がこの話を書くきっかけとなった話があります。それは、江戸後期に書かれた『享和雑記』という随筆で、その巻二に『濃州徳山黒ん坊』があり、それに触発された綺堂が、自分の叔父から若い頃に聞いた話をまとめた怪談話にしたというわけです。
綺堂の叔父は江戸幕府で武士をしていたようですが、その伯父が26歳の年だった文久2年、大垣藩へ隠密として送られることになります。
おそらくは他藩の内情を探る忍者のようなもので、現代でいえばスパイといったところでしょうか。伯父は小間物売りをする旅商人に変装して城下へ潜り込みます。
最初のひと月程度は無事に務めを果たせていたものの、次第に怪しまれる気配を感じるようになり、正体がばれれば召し取られるか死罪に遭う恐れを持ち、藩の外へ退避することを試みます。
大垣藩があった辺りは今は岐阜県の南部です。地図で確認すると、岐阜県は多くの県と接しているのがわかります。
南は愛知と三重、西は滋賀と福井、北は石川と富山、そして東が長野と、すべてで7つの県です。これほど他県と接する県はほかにないでしょう。
追っ手の目を逃れるため、叔父は山間部を行き、越前へ渡る計画を立てます。
今の岐阜県は、南部に平野部があるだけで、ほかは山間部が広がっています。
備前は今の福井県の一部になり、北西方向へ移動するコースになります。
途中、根尾村というかつてあった村名が登場します。高校野球で活躍し、中日ドラゴンズに鳴り物入りで入団した選手に根尾昴氏がいます。
彼は岐阜県の出身です。もしかしたら、彼の先祖が生まれた土地が根尾村だったかもしれない、と勝手な想像をしました。
山深い道なき道を歩いた伯父は、ある日の夕刻、枯れすすきの奥に続く細い路らしきものを見つけ、それを辿っていきます。
するとその先に、大木に囲まれた小屋のようなものがあります。一夜の宿にさせてもらうおうとそこを訪ねると、中にいたのは、30歳になるかならないかの僧侶がひとりでした。
その僧侶は、今は源光という名ですが、出家するまでは源蔵といい、両親と妹の4人で暮らしていたという話です。
源蔵が11歳のとき、彼の家を訪ねてきた僧侶に、「お前には出家すべき相が出ている」といわれ、俄かに仏門へ入ろうという気が起こり、僧侶について家をあとにしたということです。
その後、僧侶になった源光は鎌倉の寺で26歳まで、足掛け16年修行したと話します。
源光が家を空けていた間に、妹が死に、母が死に、そして父がしにと3年の間に家族は全滅し、自分ひとりだけになったと話しました。
伯父は、源光に頼み込み、やっと一夜だけ泊めてもらうことになります。囲炉裏の火が消え、真っ暗になりますが、不安な気持ちがあり、寝つけないまま布団の中にいました。
すると、源光が家から出てどこかへ歩いていく気配がしました。伯父は起き出し、雨戸を細く開けて外の様子を窺うと、源光の姿はなく、すすきをかき分けて進む音が微かに聞こえるだけでした。
そのわずかあと、これまで聞いたことがないような音が聞こえてきます。それは、かちかち、あるいは、からからと聞こえ、得体のしれない何かが笑っているようで、叔父はいいようのない恐怖に包まれます。
翌朝、源光の家をあとにした伯父は、上り下りの難所を過ぎ、その先にあった村落へたどり着きます。そこの住人に前夜聞いた恐ろし気な音の話を打ち明けたことで、その音の正体と、源蔵一家に起きた悲しくも恐ろしい話が語られます。
今のCOVID-19騒動を、表のマスメディアは恐怖で煽り、多くの人は、叔父が聞いて怯えた音のように、COVID-19に恐ろしい影を見ているでしょう。
個人的には、早く正体を見抜いて適切に対応すべきだと思いますが、影に怯えている人を、無理に説得することはできません。
いつかそれに気づき、今よりも心穏やかに過ごせるようになるとよい、と願うばかりです。