この土曜日、松本清張の短編作品をドラマ化した番組が放送されました。私は録画し、昨日の午後に見ました。
あとで知りましたが、この作品は、撮影が決まった頃から報じられていたようで、内容に過激が部分があるため、放送前から一部では話題になっていたでしょうか。
私は、普段は日本のドラマは見ませんが、清張の原作だったため、今回も付き合って見ました。
NHKBSプレミアムで午後9時から『黒い画集~証言~』です。
清張作品に接している人には説明するまでもありませんが、タイトルになぜ「黒い画集」とつくのかわからない人もいるでしょうか。
清張は短編作品を数多く書いていますが、それらをまとめた短編集に、清張をイメージさせる色(?)の「黒」をつけ、「黒い画集」としているのです。
このシリーズは3巻あり、『黒い画集2』に短編作品の『証言』(1958)が収録されています。
私はAmazonの電子書籍で『証言』を含む短編集『黒い画集 Kindle版』を、昨年末の12月27日、購入しています。その時期にAmazonが年末年始に割引サービスをし、本作がそれに該当していたことで購入しています。
本作には、『証言』のほか、次の短編作品が収録されています。
・遭難(1958)
・寒流(1959)
・凶器(1959)
・紐(1959)
・坂道の家(1959)
ドラマが放送される数日前、もう一度原作を読みました。本作は、1958年、『週刊朝日』の12月21号と12月29日号の2回に分けて紹介されたそうですが、ページ数が23ですから、あっという間に読み終わってしまいます。
描かれているのは、週刊誌に掲載された昭和34年頃に設定された東京の一隅です。登場人物は少なく、東京都大田区大森にくたびれた妻と暮らす40歳代のサラリーマンの心理描写をもっぱら描いています。
それがNHKのドラマでは、舞台を現代の北陸に設定し直し、主人公の男は、クリニックを経営する真面目な医師です。原作と違い、妻は美人で、高校生の娘と息子とで恵まれた生活をしています。
今の日本は、ドラマの作り方が類型的で、どこかで見たような出来です。
脚本は朝原雄三と石川勝己で、演出は朝原が兼務しています。
妻と娘は夫であり父である主人公の男を敬っているように描いています。それを見た瞬間、脚本家と演出家は何を考えているのだろうと思いました。
清張が『証言』で描きたかったのは、男の孤独と焦りです。醜く太った妻に男は愛情を持っておらず、心を通わせることを諦めています。そんな妻ですから、自分の秘密を打ち明けることもしません。
追いつめられていく男の心理を主眼に置く限りは、男を徹底して孤独にしなければ話がもちません。
それがNHKのドラマでは、問題のない家族の主にしてしまったのですから、その時点で、男の切迫感を描くのには不向きとなってしまいます。
妻への愛情が薄らいだ男は、自分の会社に勤めていた若い女を愛人にし、都内の某所にアパートを借りてそこへ住まわせています。
世間の目から隠れて男は愛人のアパートを訪ね、逢瀬を重ねているのです。
年の暮れのある夜、いつものように愛人のアパートでひとときを過ごした男が、愛人に見送られてタクシーを拾い、自宅へ帰ろうとしていたときです。
男の日常からは切り離された場所で、自宅近くに住む男に出会い、男はその男に会釈してしまいます。
それだけで済めばよかったものの、男の家の近くでOL殺人事件が起き、会釈した男が容疑者とされてしまいます。容疑者の男は自分にはアリバイがあるといい、犯行時刻に自分は、自分の家の近くに住む男とある場所でばったり会い、互いに会釈したと無罪を主張します。
誰にも知られてはならない愛人との秘密を守るため、容疑者の男のアリバイを”証明”できず苦悶する、というシンプルな話です。
この短編に注目したNHKがドラマ化したわけですが、話がシンプル過ぎると考えたのか、余計と思えなくもない、現代風の味付けをしました。
このことが放送前から話題となっていたようです。主人公の男を同性愛者にし、愛人を新進気鋭の陶芸作家にしたことです。
脚本と演出を担当した朝原氏は、昨今は関心を持たれるようになった恋愛関係でもあり、悪くない想定と考えたかもしれません。が、個人的には、成功していないように感じました。
男性同士の愛の交わりというのに焦点が当たり過ぎ、肝心であるはずの、男の孤独と焦りが薄まった印象になっているからです。
主人公の男を演じたのはNHKがなぜかお気に入りの谷原章介です。
本作の谷原も演技は旨いとはいえず、その谷原にやけ酒を飲ませるなどして男の焦りを描いたつもりになっていますが、見る人へのインパクトを欠いています。
90分という作品の時間を保つため、家族とのやり取りなどのシーンを創作していますが、陳腐です。
妻を演じた西田尚美も、見た目や演技がよくないです。
舞台を清張作品にはなじみの深い北陸に設定したからには、日本海の荒い波しぶきを背景にして演技する場面を設定するなど、工夫のしようがあったように思います。
ボンヤリ見ていた私は、途中まで、舞台が東京だと勘違いしていました。それほどローカル色の味付けが薄かったというわけです。
「サスペンス映画の神様」とも称されることで有名な映画監督のアルフレッド・ヒッチコックは、名所旧跡を好んで舞台にしていますが、サービス精神の旺盛なヒッチコックは、その地方の特徴的な風景を作品で活かすことを必ずしています。
たとえば、『北北西に進路を取れ』(1959)では、ラシュモア山の岩肌に掘られた4人の米大統領の巨大な顔を、主人公たちが逃げる場面を描いています。
逆のいい方をすれば、そうしたことをしないのであれば、原作と違う舞台にする意味がありません。
もっとも、NHKのドラマでも、男の愛人の若い陶芸家が、地元にある窯で焼き物をするシーンを入れていますが、焼き物の窯と北陸は関連性が特別強くないように私には思えます。
主人公の男が、思いがけないタイミングで知り合いの男に会ってしまうのが本作の肝となるわけですが、それがNHKのドラマでは呆気なさすぎです。
知り合いの男は車でそこを通りかかり、信号で停まったときに、車の窓越しに主人公の男を見かけるだけです。
また、知り合いの男を、NHKのドラマでは軽薄で嫌な男にしています。これも成功しているとはいえません。ハッキリいえば失敗です。
原作は保険の外交員をする目立たない印象の男です。ドラマでは、外車を扱うディーラーで、見るからに嫌な印象の男です。
どこにでもいる平凡な市民に濡れ衣が着せられ、自分が証言しないために重罪に問われるかもしれないと主人公の男は苦しみます。
それが、自分の地位や名を捨ててまで証言するに値しない男にしてしまったのでは、見ている人は逆に、証言を拒む男に同情してしまうのではないでしょうか。
事実、ドラマの中で、男の妻がディーラーの男にセクハラ紛いのことをされたとして、証言などする必要などないと夫を慰めています。
これでは、『証言』と題をつけて描いた清張の立つ瀬がありません。
ドラマは原作にはないラストが用意されているとされていました。
すべてを打ち明けて苦しむ夫を見かねた妻が、別れの盃のようにして、毒入りの酒を飲ませて殺すのです。
そのように変更してもいいでしょうが、そう描くからには、妻を悪妻にし、夫に明かすことのなかった秘密を持たせなければなりません。
私がイメージさせてもらえるのであれば、妻も同性愛者にします。互いが偽りの夫婦であったことにすれば、原作からはずいぶん離れてしまいますが、これはこれで、ドラマのまとまりはよくなるでしょう。
ドラマの最後、妻に墓参りをさせていますが、これは蛇足で、まったく必要のないシーンです。
清張が書いた短編作品の良さは、突然のように幕切れが訪れることです。面倒くさい話はきっぱりと切り捨て、あとは読者の想像にまかせ、一方的に幕を閉じるのです。
それがドラマでは、後日談まで入れて、「コレコレこうなりましたとさ」と語っているようで、うんざりです。
英国の番組制作会社が制作した『名探偵ポワロ』が今、毎週土曜日の夕方に放送されています。日本のドラマ制作者はそれを見て、日本のドラマに何が足りなくて、何が余計か、”お勉強”されることをお勧めします。