本に書かれたことを読むことで、「へー、そんなことがあったんだ」と驚かされることがたまにあります。
これまで聞いたことがなかった話を、外山滋比古氏(96)の本で知りました。
前回の投稿で、Amazonの電子書籍サービス、Kindle Unlimitedを1カ月間無料で利用していることを書きました。対象作品で何か面白そうな本はないかと探し、見つけた1冊が外山氏の書下ろしエッセイ集『傷のあるリンゴ』です。
表題になっている『傷のあるリンゴ』は、外山氏が青森を訪れたとき、朝市を覗き、お客さんが居ずに寂しげに見えたおばあさんに近づき、傷のあるリンゴを二山買って帰ったことから始まります。
そこから話を広げ、「人間でも、きれいで、非の打ちどころのないのより、欠けたところのある方が、いいように感じられる」と外山氏独特の視点へ話を展開する構造になっています。
リンゴも傷物は売り物にならないでしょうが、傷があるリンゴのほうが、糖分が多く、甘いという話をある、と外山氏は書いています。
私は食べ物には頓着がなく、傷がついたリンゴでも何でも、まったく気にせず食べることができます。
そしてもしも本当に、傷のあるリンゴのほうが甘いのであれば、値段も安くて旨いことになり、私のような者にはこれ以上の掘り出し物はないことになりそうです、けれど。
こんな話を表題に持つエッセイ集に、私がこれまで生きてきて、一度も聞いたことがない話が載っていましたので、紹介することにします。
それは、若死にする小学校の先生の話です。
今の学校の教師というのは、授業を教えるだけでなく、部活の顧問までさせられ、それが運動部であれば、休日まで駆り出されて大変だといった話は聞きます。
だからといって、教師が早死にするといった話は聞きません。
ところが、昭和初年の頃の小学校の先生は若死ににした、と外山氏が『口舌散歩』というエッセイで書いているのです。
昭和が始まった頃は、今よりも学校の先生の地位が高く、庶民からはエリートと見られていたようです。外山氏も「小学校の先生は、人もうらやむエリートであった」と書いています。
それが田舎の先生であったりすれば、その傾向は強かったのでしょうか。狭い田んぼ道で先生と出逢えと、自分の子供が直接教えてもらっていなくても、鍬を担いだ農夫は先生に道を譲り、通り過ぎる先生にお辞儀をしたりしたようです。
そんな羨望の的の新任教師が、肺病でバタバタと倒れて死ぬことがあったそうです。
そんなことがあまりにも続いたため、人々は不思議に思い、原因を様々なものに求めることをしたそうです。
その結果、ひとつの仮説が浮かびます。
新任の小学校教師を死に追いやるのは何か? もしかしたら、黒板に文字を書く白墨(チョーク)なのではなかろうか、と。
私が子供の頃のことを思い出しても、黒板にチョークで文字を書く様子を思い浮かべることができます。文字を書くスペースがなくなれば、黒板消しで消すことを繰り返しました。
チョークで書かれた文字は、黒板の表面にくっついているだけで、黒板消しでなぞれば、簡単に消えてくれます。
近年のチョークは、炭酸カルシウムや石膏(硫酸カルシウム)を原料とするそうですが、どんな原料であれ、黒板に文字を書いたり消したりするたびに、消された文字は粉状になって空気中に漂ったりするでしょう。
今の学校も同じなのかどうか知りませんが、私の子供の頃の小学校の先生は担任制で、受け持ちのクラスの児童に、すべての教科をひとりで教えていました。
ですから、休み時間以外は黒板の前に立ち、1日何時間も書いたり消したりすることで生じるチョークの粉塵には晒され続けることになります。
それが先生の鼻や口から知らず知らずのうちに吸い込まれ、肺にmで到達することがあれば、体に害を及ぼし、中には若死にする者がいても不思議ではなかろう、といったように考えられたようです。
それが本当の原因であるのなら、今も先生たちが置かれた状況に変化はあまりないはずです。が、小学校の先生になったばかりの人が、1年足らずのうちに亡くなるといったニュースを見聞きすることがありません。
ともあれ、俗説を信じた当時の先生の中で、神経質な先生などは、ハンカチで口を覆ったりしたそうです。また、それよりも慎重になりますと、なるべく黒板に文字を書かなくなったり、書いた文字を消すのを児童にさせたりもした、と書かれています。
俗説を一通り書いたあと、若死にの本当の原因を書いています。
それは、過労です。
当時、学校の先生は、肉体的には楽な仕事と考えられていたそうです。ところが、現実問題としては、人々のイメージとは逆で、肉体的にも大変な労働なのであり、そのことで、若くして亡くなる人がいた、というわけらしいです。
既に書きましたように、小学校の先生は、基本的にすべての教科を教えます。教室には何十人もの児童が座り、先生の話を聞きます。
先生は、教室の一番後ろに座っている児童にも聞こえるように、大きな声で話をします。それまで大声を出す訓練を受けていなかった新任教師が、それを1日に何時間もすることになり、へとへとに疲れてしまっても不思議なことではありません。
とくに、先生になったばかりの新任の教師は張り切り、体への負荷をかけてしまう傾向がありました。教師たちは疲れを体に溜め、基礎体力のない先生は早々に不健康になり、それでも頑張り通してしまうことで、中には亡くなってしまう人もいた、というわけだろうとわけです。
小学校の先生が置かれた状況は今もさほど変わらないはずですが、新任の小学校教師が若死にする話は聞きません。それがなぜなのか、私は知りませんし、外山氏もその理由は書いていません。
それどころか、途中から外山氏は、大きな声を出す教室での授業は、ジョギングをするようなもので、健康のためには良いエクササイズになる、と書き始めます。
外山氏も大学で教える経験を長く持ち、そのあたりのことは強く実感されているのでしょう。
さんざんしゃべりまくって、疲れて帰ると、不思議と、出かける前より血圧が下がっていたりする。どこかにあるストレスが解消しているためかもしれない。とにかく健康的である。
これは、外山氏が教師をやめたあと、無駄話をするために作った仲間の集まりから帰ったあとのことを書いているわけですが、教師の現役時代も、同じような感覚だっただろうと思います。
それだから、わざわざおしゃべり仲間を作ったりされているわけですから。
昔の小学校の先生の若死にの話から始め、その原因が教室で大声を出す重労働にあると書いたあと、後半は一転して、おしゃべりの効用を説いています。
読み終わったあと、若死にの話はどこへ行ってしまったのだろうと感じ、それだから、若死にした昔の小学校の先生の話があとまで妙に心に残ってしまいます。